なんかもういい加減日常なんですがまだ余韻が(笑)
お陰でWSは外すしFNSはマトモに見てないし・・・なんだかな。
北海道にワープ!して監督とラーメン食べた、ってtwitterで監督のツブヤキを読んだ。
もう撮影は一年前に終わっているのに、ヤマトは始動したばかり。
・・・このギャップって映画特有のモンかもしれないけど、
その場合のテンションの持って行き方ってどうなんだろうね。

2回見て古代について少し書けそうな気がしてきました。

山崎監督のキムラ=古代評は終始一貫変わらないよね。
「彼がいたからヤマトを撮れた」。
ヤマトの実写化そのものが監督の中では『不可能を可能にする』いわば
Mission Impossibleであったこと。
物語中のヤマトの死闘とヤマト実写化への苦闘を完全にオーバーラップさせて語る監督の中で、キムラタクヤという俳優はまんま古代進そのものに見えたのでしょう。

後半どんどん人が死んでいくシーンの数々。
残酷かつ無情なシーンではあります。
しかしそこに暗さはない。惨めさもない。
(私は決して戦争を賛美するつもりはありませんし、自己犠牲を美化するつもりもありません)
彼らは古代進(と森雪)を地球に帰還させるために半ば進んで命を差し出す。
なぜだろう?

そのカギは建造中のヤマトを藤堂と眺める沖田が言う言葉にあります。

「この船を私にください(中略)・・・そうすれば少なくとも人々は、
絶望でなく希望の中で死んでいくことができます」

沖田はもちろんヤマトとそのミッションについて語っているのですが、
同時に<希望とは何か>についても語っているのです。

真田や斉藤、加藤たちがなぜああいう行動を取ったか?
私は彼らが、そこに<希望>を見出すことができたからだと考えます。
言い換えれば、古代が不可能を可能に変え地球を救うことを確信できたから、とも言えます。

でもちょっと冷静に考えてみると・・・あの2時間18分の尺の中で、
それを見る側に納得させる要素って何だったんでしょう?

そこがまさにキムラタクヤって人の凄さです。
前半のやたらテンションの高い演技(笑)から一転、
責任を背負って苦悩し、ちらりと弱さを見せつつも、
「この人のために何かしてあげたい!」と思わせる、人を惹き付ける魅力。
「この人なら不可能を可能にできるかも。」と確信させる力強さ。

そして怒涛のラスト。
あんなテンションの高い、いわばこてこてのヒロイックなシーンを、
過剰な悲壮感を漂わすことなく、ある種の爽やかさすら感じる潔さで演じきった彼。
まさに古代進を<生きた>彼のリアリティあふれる表現があってこそです。

山崎監督のキネ旬インタの言葉を借りるなら
「他に古代をやれる人がいれなら、連れてきてみろ」ってことですね。


そして私はふと、ゴローちゃんの言葉を思い出したのです。

「現実離れした美しさ」

人を心酔させ、自己犠牲をもいとわぬ気持ちにさせ、全てを背負い込んで行く古代進。
この上なくドラマティックな孤高のキャラクターを、
平凡な容姿の人間が演じきることなど不可能なのです。

そうなんです。
キムラのあの壮絶なまでのビジュアルがなかったらたぶん、
あのシーンの感動は実現しなかったでしょう。

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