人間の生きてる意味ってなんだろう?

なぁんてことをちょっとだけ考えてしまった20代に改めて読んで、
もの凄い衝撃を受けた作品です。
小学生に上がる頃既に何度も読んでいたんですけどね。

本作は昭和20~30年代と思しき日本の、超ド田舎に住む三平少年が、
ふとしたはずみから自分に瓜二つの<河童の>三平に出会うところから始まります。
河童の世界に引きずり込まれたり、セコい死神(ねずみ男にそっくりw)に
ストーカーされたり、小人を飼育したり、猫仙人の世界へつれていかれたり。
三平の相棒兼悪友はすれっからし(笑)の子ダヌキ。
田舎の子供ののんびりのどかな日常に、何の違和感もなく侵入してくる
『この世ならぬ世界の住人たち』。
三平と、異形の隣人達のあまりにも日常的なやり取りが面白く、
やがてしんみりした寂しさを運んでくる。

水木しげるは超尊敬する作家さんの一人であります。
これと『悪魔くん千年王国』は今読んでも読後にある種の虚脱感を覚える傑作です。

水木さんのすごさはたくさんあるのですが、そのひとつは『死生観』だと思います。
彼の作品の中で、人はいきなり死ぬ。ころっと死ぬ。
「あっ!?」というまの唐突な死がそこにある。
(『河童の三平』に至っては主人公が途中で死んでしまうのであります)
それを受け止める周囲の人々の反応も、悲しんではいるのですが、
死を死として受け止め『死んでしまったこと』をいつまでも悔やんだりはしない。
こう書くとずいぶん冷酷な感じがしますが、水木作品の中では死者の行くところ
(=死後の世界)は生者の住まいのすぐ隣にある。
次元の裂け目をくぐり抜けるように『あっち側』に行ってしまい、会うことはできない。
それだけ。
この達観した死生観はおそらく、ラバウルで危く戦死しかけた経歴と
切り離して考えることはできないでしょう。
さっきまで親しく家族や故郷の話をしていた人が、目の前で一瞬にして命を落としてゆく。
自らも敵の奇襲で左腕を失い、生死の境を彷徨う。
いわば地獄の釜が開いたその中を、図らずも覗き込む羽目になった人だからこその、
冷徹でそして限りなく優しい生命への目線がある。


とても印象的なシーンがふたつあります。

体の弱い母に代わり三平を育ててくれたお爺さんが死神に連れて行かれた夜。
畳の上で一人淋しくうたたねする三平。
そして次のシーンではいきなり、どこからか上がりこんできた悪戯ものの子ダヌキが
よりそうようにグーグー寝ている。
子ダヌキに腹を立てながらも三平は、完全な孤独からは救われる。

そしてラストシーン。
苦労の多かった三平のお母さんの気持ちを慮って、死んだ三平になりすまし
小学校を卒業した河童の三平。
「せめて、小学校の間だけは(人間の)三平のふりをしていたのです。」と告白する河童に、
「私はずっと前から気付いていました。でも、あなたたちの気持ちが嬉しくて、気付かないふりをしていたの。」
とやさしく語りかける母。
義務を終えた河童は静かに母に手を振り、河童の世界へと帰って行く。
彼を見送るたった一人残された母と、傍らに寄り添うように立つ子ダヌキ。
いつものように山の向こう側へと沈んでいく夕日。

この最後のコマを見終わった時いつも、なんともいえない虚脱感と、
何があっても生きていけそうな不思議な力が湧いてくるのです。

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