水面の上と下。

2011年8月1日 日常
今日から8月というのに空はグレイで湿度は高いけれど真夏とは思えない気温。

咲いて三日目の睡蓮は今の時間は花を閉じて蕾の形に戻っている。
その涼しげで穢れなど知らぬ風情や水に浮かんだ姿は、
浮世の汚れや辛さとは対極にある清らかさと癒しの象徴のようにも見える。
『蜘蛛の糸』の話を思い出す。
確かお釈迦様の庭には白い蓮の咲く池があって、
そこから下界に向かって糸を垂らしたのではなかったか。

冬の寒い時期の睡蓮は葉も茎も枯れ果て、根っこの姿で氷の張りつめたその下の
底の泥の中で静かに眠っている。
生命活動は停止し、その生死さえ外から判別できない。
ようやく春先、冷たい泥沼と化した鉢を掘り返し根を洗浄する。
すると、太い親株に小さな瘤のような子株がちょこんと生まれている。
カッターで切り離し、肥料をたっぷり混ぜ込んだ土に埋め、水を張った大鉢に沈めておく。
水が温み、なんとなく春らしい気配が濃くなってくるころ、ほんの小さな緑が見える。
日が長く・高くなるにつれ、尖った緑の芽が日に日に伸び始める。
そして水面に到達すると、固く巻いていた葉を思いっきり開いて
太陽の光をいっぱいに捕まえる。
こまめに肥料を与え、さらに受けた日差しを糧に日ごとに緑は数を増やし水面に広がる。

太陽の照りつける真夏のある日、ぬるい水の中、放射状に並んだ葉の真ん中に
すーっと丸っこい先端をした茎がのび、朝日を受けて静かに静かに花が開く。
金色の中心を持つ白や紫や桃色の睡蓮の花。
透き通った水面にゆれるその姿は、春に心を躍らせる薔薇とは全く別種の感情を抱かせる。

『蜘蛛の糸』のお釈迦様の庭の池と同じように、美しく開いた花の下、透き通った水の
奥底には必ず暗く淀んだ泥がある。
そこは水の上から決して覗けない・・・美しい睡蓮の花の隠された陰。
しかしその輝きを支え、見るもの・触れる者を癒す力の源はそこにある。
必ずしもそれは、人目に触れるべきものではないかもしれない。
睡蓮の花にしてみれば、わざわざ覗き込まれたくないかもしれない。

しかし。
淀んだ泥から水面に向かって伸ばされた茎、水の上に差し出された花と葉。
これら陰から陽に至るグラデーションの全てがあるからこそ、
睡蓮はあの独特の美しさで見るものを忘我の境地へ誘うように私には思える。

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