NHK日曜朝の日曜美術館でフランシス・ベーコン特集があるので録画しました。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2013/0505/index.html
コメンテーターが大江健三郎にデヴィッド・リンチ。まさにオレ得番組←w
(*5/12に再放送されます)

初っ端、当時のまま移設・再現されたベーコンのアトリエの映像が。
切り抜きや写真やその他資料で脚の踏み場もない床。
パレットを使わず壁で絵の具を混ぜ合わせた跡も生々しい。
想像を絶する混沌。
ベーコンの、特異だけど端正とも言える作品の表皮をべろりと剥がしてみたら、
こんなカオスが広がっているんじゃないだろうか。

大江健三郎氏はベーコンの絵を「美しい」と言う。
正直なところそれはどうかな?と思いつつ、大江氏の感じる美しさは、一般的なそれとは別のものだろうとも思う。
ベーコンの洗練された表現。
例えば、叫ぶ男を描いた作品から伝わってくるのは、人間のありとあらゆる<叫び>のエッセンス。
恐怖、怒り、悲しみ、絶望、その他の全ての感情の叫び声が<見て取れる>という。
絵の構図自体はシンプルだけど、その整った暗い表皮の下に蠢くのは、名付けようもない混沌とした剥き出しの、原初のエネルギーだと。

一方でヴィッド・リンチはベーコンの<拘り>を愛するという。
剥き出しの肉塊と化した人、故意に歪められた人体。
暴力的でグロテスクかもしれない表現だけど、決して<グロテスクで醜いモノ>を
描こうとしたのではない。
むしろそれらの中に独特の美しさ・魅力を感じ惹き付けられるままに描いたのだと。

二人のコメントを聞いてああそうか、と思った。
大江氏もリンチも作品を語っているようで実は自分自身を語っている。
最近読んだベーコンのインタビューで、生前彼の語っていたこと。
「作品に明快な意味や物語を与えたくない。」
その時は彼の意図がよく理解できなかったが、番組を見て気づいた。
歪んだ人体も肉塊も叫ぶ男も、グロテスクである意味ショッキングではあるが、
こちら側を威嚇したり怖がらせたりする意図は無いと感じた。
ベーコンの絵の奇妙に不気味な静けさは混沌を抱え込んだ静謐さで、
その滑らかな表面はむしろ、鏡のようなものかもしれない。
人はその鏡を覗き込み、自身の内面に渦巻く感情や妄想、固定観念や執着の反射と
ただ向き合い、考える。
ここに描かれているのは人間である。
見ている私も人間であり、ならばこれは私の一部かもしれない、と。

キャンバスの表皮の下に蠢くカオスを垣間見せることが、
ベーコンの意図だったのかもしれない。

大江健三郎氏の「偉大な作品というものは過去の流れを受け継ぎながら、その人にしかできないやり方で表現されたもの。」という言葉。
文学にしろ絵画、彫刻、音楽にしろそうだと。
とても暗示的で含蓄のある言葉だなぁと思いつつ、まだピンとこない部分もあり、
その意図を暫く考えてみようと思っています。

コメント