うつけもの。
中身が空っぽ=虚ろな者、から来た呼び名だそうで。
髪を茶筅に結い、帯の代わりに荒縄を締め、だらしなく着物を着た信長。
領地の農民の子を引き連れて喧嘩三昧の乱暴者。
しかし彼は後に戦乱の世に天下統一の礎を築いた。
信長が<うつけ>と呼ばれた理由はただ一つ。
慣習に囚われず独自の感性と知性に従って生きたから。
彼が後々まで名を残し、愛され、崇拝される存在になれたのは、どんなに誹られようとも自らの嗅覚と感覚を信じて突き進む、強烈な自我と人を動かすカリスマ性を備えていたから。
まさに革新的な存在。
それまで存在した誰とも違う唯一無二な<自分>。
信長を演じる木村拓哉自身もまた、他の俳優と一線を画すお芝居をしているように
見える。
モノクロの画面の中に彼だけが極彩色を纏って存在しているような…そんな感じ。
他の役者さんが鬘をつけているのに彼だけ自毛を結っているとか、劇中の信長独自の着崩し方が、現代人のドレスダウンの感覚に通じるとかも一因かもしれない。
しかしそれだけならば、斎藤道三との謁見シーンの、圧倒的な凄まじいオーラと
目を奪う美しさは説明できない。
廊下に現れた信長は先刻の小汚い身なりから一転、一分の隙もなく正装している。
海千山千・変幻自在の老獪なる美濃の蝮が気圧される。
若き信長は顔を知らぬとは言え、格上のはずの相手がまるで目に入らない様子で通り過ぎようとし、呼び止められ、立ち止まる。
そして悪びれる風もなくジッと目を合わせ、すっと軽く会釈する。
言葉は、ない。
だがこの一瞬で二人の立場が予想外に逆転する。
姿形が美しいとか立ち居振る舞いが見事だとか、それらしい理由をいくつも探して
考察してみても、それはあくまでもシーンを形作るディテールであって、画面全体を
支配するあの特別な感じを説明できない。
キムラが演じた他の時代劇「一分」「武蔵」「1/47」にも無い感覚。
それでいてとても良く知っている…あの感じ。
考えてみると、信長と彼には共通点が多い。
カリスマ性。自己を貫く強烈な自我。
どこへ行こうと何をしようと、黙ってそこに居るだけで彼は目立つ。
そのお芝居の声のトーン・間の取り方・身のこなし、全てが革新的で似た者が無い。
私はたぶん信長を見ながら、その向こうの木村拓哉を見つめているのかもしれない。
もう一つの新鮮な驚き。
信長を演じた頃の彼のお芝居は、今とほとんど変わらない。
つまり20代の早い時期に、既にスタイルを確立していたのだ。
しかも変わらずに居ながら、明らかに深化している。
表情はより陰影に富み、仕草はより細やかに、言葉よりも豊かに感情を語る。
その声はより低く丸く柔らかく、心地よく耳に届く。
そういえば現在演じている久利生はまさに<うつけもの>の系譜の人かもしれない。
ダメージジーンズにカジュアルなチェックやアロハシャツ、スニーカー姿の検事。
何度も現場に足を運び、徹底的に検証を重ね、納得するまで起訴しない。
そのアプローチの革新性ゆえ、周囲の人々に疎まれるが、いつしか周囲を巻き込み、
空気すら変えてしまう。
そしてまた、久利生公平も木村拓哉と共に年齢を重ね、深みを増し成熟していく。
一番本人に近いキャラクターかもしれない。
信長と久利生。
キムラが過去に演じ、彼自身によく似た二人の人物の物語を、ほぼ同時期に見る。
一人は過去の彼。もう一人は現在進行形の彼。
なんだか暗示的ではないか。
『織田信長 天下を取ったバカ』は本能寺はおろか桶狭間以前の話であり、所謂ポピュラーな信長のイメージはこの物語の先にある。
これはもう、後半生を近々演じて頂くしかないだろう。
中身が空っぽ=虚ろな者、から来た呼び名だそうで。
髪を茶筅に結い、帯の代わりに荒縄を締め、だらしなく着物を着た信長。
領地の農民の子を引き連れて喧嘩三昧の乱暴者。
しかし彼は後に戦乱の世に天下統一の礎を築いた。
信長が<うつけ>と呼ばれた理由はただ一つ。
慣習に囚われず独自の感性と知性に従って生きたから。
彼が後々まで名を残し、愛され、崇拝される存在になれたのは、どんなに誹られようとも自らの嗅覚と感覚を信じて突き進む、強烈な自我と人を動かすカリスマ性を備えていたから。
まさに革新的な存在。
それまで存在した誰とも違う唯一無二な<自分>。
信長を演じる木村拓哉自身もまた、他の俳優と一線を画すお芝居をしているように
見える。
モノクロの画面の中に彼だけが極彩色を纏って存在しているような…そんな感じ。
他の役者さんが鬘をつけているのに彼だけ自毛を結っているとか、劇中の信長独自の着崩し方が、現代人のドレスダウンの感覚に通じるとかも一因かもしれない。
しかしそれだけならば、斎藤道三との謁見シーンの、圧倒的な凄まじいオーラと
目を奪う美しさは説明できない。
廊下に現れた信長は先刻の小汚い身なりから一転、一分の隙もなく正装している。
海千山千・変幻自在の老獪なる美濃の蝮が気圧される。
若き信長は顔を知らぬとは言え、格上のはずの相手がまるで目に入らない様子で通り過ぎようとし、呼び止められ、立ち止まる。
そして悪びれる風もなくジッと目を合わせ、すっと軽く会釈する。
言葉は、ない。
だがこの一瞬で二人の立場が予想外に逆転する。
姿形が美しいとか立ち居振る舞いが見事だとか、それらしい理由をいくつも探して
考察してみても、それはあくまでもシーンを形作るディテールであって、画面全体を
支配するあの特別な感じを説明できない。
キムラが演じた他の時代劇「一分」「武蔵」「1/47」にも無い感覚。
それでいてとても良く知っている…あの感じ。
考えてみると、信長と彼には共通点が多い。
カリスマ性。自己を貫く強烈な自我。
どこへ行こうと何をしようと、黙ってそこに居るだけで彼は目立つ。
そのお芝居の声のトーン・間の取り方・身のこなし、全てが革新的で似た者が無い。
私はたぶん信長を見ながら、その向こうの木村拓哉を見つめているのかもしれない。
もう一つの新鮮な驚き。
信長を演じた頃の彼のお芝居は、今とほとんど変わらない。
つまり20代の早い時期に、既にスタイルを確立していたのだ。
しかも変わらずに居ながら、明らかに深化している。
表情はより陰影に富み、仕草はより細やかに、言葉よりも豊かに感情を語る。
その声はより低く丸く柔らかく、心地よく耳に届く。
そういえば現在演じている久利生はまさに<うつけもの>の系譜の人かもしれない。
ダメージジーンズにカジュアルなチェックやアロハシャツ、スニーカー姿の検事。
何度も現場に足を運び、徹底的に検証を重ね、納得するまで起訴しない。
そのアプローチの革新性ゆえ、周囲の人々に疎まれるが、いつしか周囲を巻き込み、
空気すら変えてしまう。
そしてまた、久利生公平も木村拓哉と共に年齢を重ね、深みを増し成熟していく。
一番本人に近いキャラクターかもしれない。
信長と久利生。
キムラが過去に演じ、彼自身によく似た二人の人物の物語を、ほぼ同時期に見る。
一人は過去の彼。もう一人は現在進行形の彼。
なんだか暗示的ではないか。
『織田信長 天下を取ったバカ』は本能寺はおろか桶狭間以前の話であり、所謂ポピュラーな信長のイメージはこの物語の先にある。
これはもう、後半生を近々演じて頂くしかないだろう。
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