めちゃくちゃ愛おしいわっつ。
2014年10月4日 キムラさん コメント (2)HEROひとり反省会〜!
の、『ひとり』ってとこですでに若干テンション落ち気味のキムラでありました。
そりゃそうだ。
ドラマってひとりで作るもんじゃないのにひとりで反省会とかどう考えても罰ゲーw
前半は「わざわざそれ聞くかー??????」のオンパレード。
またもやアドリブ厨が湧いて出るし(笑)
しかし。
これで終わらないのが今のDなのであった。
後半のメッセージは素晴らしかった。
「クライマックスの法廷シーンで、窮地に追い込まれた久利生が窓の外を仰ぐのは
鍋島次席のことを思い出したのですか?」
…その後のキムラのテンションの高さにジーンとしてしまったよ、私。
監督とキムラの二人だけで話し合って決めた、あの空を見上げるシーンの意味。
それが視聴者にちゃんと伝わっていた。
イマドキのドラマや映画だと、ヘタしたら漫画の<心の声>みたいなモノローグで
「鍋島次席、見ていてください!」とか説明しちゃったりする部分かもしれない。
それだと分かりやすく、ジーンとくる<イイ話>のシーンにできる。
でも、それをやっちゃった瞬間、その作品における役者のお芝居も監督の演出も、
全く必要なくなる。
細やかな心の動きを、心の声で説明しちゃえば終わりなんだから。
絶妙な演出も繊細な表現(=お芝居)も不要になる。
それが分かっているからこそ!
敢えてあのカットで表現した演出家と役者に惜しみない拍手を送りたい。
「難しいからこそ役者は面白い。」と語ったキムラにとって、役者冥利に尽きるメッセージでしょうな。
私?
ちょっとひっかかったけど、そこまで想像してなかったです。
キムラの言葉を聞いて、あ!そうか!!と改めて感動しました。
でも久利生の心の中に鍋島次席の存在があったのだな、っていうのは法廷シーン全体を通してちゃんと感じられたから、監督と役者の想いは視聴者に伝わったと思う。
「可能性に賭けてワンカット、ワンカット」
素晴らしい言葉だ…。
ドラマで自分たちの想いが100%伝わる可能性ってほとんどないと思う。
けど、キムラも監督も共演者の方々も決して諦めていない。
だからこそ、あのメッセージは宝物のようだったと思う。
そしてあのメッセージをチョイスした現在のDに、心から感謝!
素敵だ。
あとね、もう一つすごく印象的な言葉があったな。
「(台詞が)ああ、入ってるわ。」これ、凄い。
…台詞を「憶えてる」んじゃなく、「身体の中に入っている」この違いは凄い。
憶える=記憶する。文字でも映像でもなんでもいいけど。
どう違うの?か、具体的に説明すると、
『憶えている=脳のメモリーに暗記した文章として残っている』
『身体の中に入っている=肉体的・感覚的記憶としていつでも再生可能』
一夜漬けで丸暗記した歴史の教科書の知識と、何十回もトライして身につけた鉄棒の
逆上がりの違いに近いんじゃないかと(卑近ですんません)。
前者はテストが終わったらメモリーから消え去るけど、逆上がりの感触は何十年後も憶えてたり(注:私は人生に於いて一度も逆上がりに成功してませんがw)。
逆上がりのことを考えると、小学生のあの日、校庭の片隅で握りしめた鉄棒の感触、だんだんこすれてマメのできた掌、鉄棒の後の手の平のサビ臭い匂い、ぶらさがった時逆さまに見た地面がそこだけ抉れてたこと、鉄棒の横にあったポプラの木、夕焼け…そんなことまでがつらつらとビデオの再生シーンのように出て来る。
つまり、キムラは台本を文章としてでなく、自らの肉体的・感覚的経験として記憶
してるんだな〜…。
だからまるで目の前で起っているかのように喋ったり、再現したりできるんだろうし
ライブで他面のフォーメーションまで正確に説明できるんだろうな。
記憶しなくても身体に入る。
だから彼は、台本を台詞としては喋らない。
どの役のどの台詞も、彼の中ではある意味<体験>にすり替わるので…。
これって役者として誰もが欲しい凄い能力じゃないのかしら。
(バカ安置が何をやっても、って言いたがるのもこれが一因ではあるのだが)
ということで、昨日のわっつは収穫があったし、キムラも嬉しかっただろうし。
そうそう、HEROについて最後に
「スタッフに感謝、キャストに感謝、そして何より受けとってくれた人たちに感謝」
と語ってたけど、ライブでも毎回同じこと言ってますねw
『俺らは生かされてるんや』by.さんま
を、地でいくキムラにとって、届いている確かな手応えはかけがえのないもの。
数字やカオナシのようなメディアの言葉を、彼は信じない。
受けとってくれる人たちの、言葉を、リアクションだけを、彼は信じる。
わっつがあってよかったです…。
の、『ひとり』ってとこですでに若干テンション落ち気味のキムラでありました。
そりゃそうだ。
ドラマってひとりで作るもんじゃないのにひとりで反省会とかどう考えても罰ゲーw
前半は「わざわざそれ聞くかー??????」のオンパレード。
またもやアドリブ厨が湧いて出るし(笑)
しかし。
これで終わらないのが今のDなのであった。
後半のメッセージは素晴らしかった。
「クライマックスの法廷シーンで、窮地に追い込まれた久利生が窓の外を仰ぐのは
鍋島次席のことを思い出したのですか?」
…その後のキムラのテンションの高さにジーンとしてしまったよ、私。
監督とキムラの二人だけで話し合って決めた、あの空を見上げるシーンの意味。
それが視聴者にちゃんと伝わっていた。
イマドキのドラマや映画だと、ヘタしたら漫画の<心の声>みたいなモノローグで
「鍋島次席、見ていてください!」とか説明しちゃったりする部分かもしれない。
それだと分かりやすく、ジーンとくる<イイ話>のシーンにできる。
でも、それをやっちゃった瞬間、その作品における役者のお芝居も監督の演出も、
全く必要なくなる。
細やかな心の動きを、心の声で説明しちゃえば終わりなんだから。
絶妙な演出も繊細な表現(=お芝居)も不要になる。
それが分かっているからこそ!
敢えてあのカットで表現した演出家と役者に惜しみない拍手を送りたい。
「難しいからこそ役者は面白い。」と語ったキムラにとって、役者冥利に尽きるメッセージでしょうな。
私?
ちょっとひっかかったけど、そこまで想像してなかったです。
キムラの言葉を聞いて、あ!そうか!!と改めて感動しました。
でも久利生の心の中に鍋島次席の存在があったのだな、っていうのは法廷シーン全体を通してちゃんと感じられたから、監督と役者の想いは視聴者に伝わったと思う。
「可能性に賭けてワンカット、ワンカット」
素晴らしい言葉だ…。
ドラマで自分たちの想いが100%伝わる可能性ってほとんどないと思う。
けど、キムラも監督も共演者の方々も決して諦めていない。
だからこそ、あのメッセージは宝物のようだったと思う。
そしてあのメッセージをチョイスした現在のDに、心から感謝!
素敵だ。
あとね、もう一つすごく印象的な言葉があったな。
「(台詞が)ああ、入ってるわ。」これ、凄い。
…台詞を「憶えてる」んじゃなく、「身体の中に入っている」この違いは凄い。
憶える=記憶する。文字でも映像でもなんでもいいけど。
どう違うの?か、具体的に説明すると、
『憶えている=脳のメモリーに暗記した文章として残っている』
『身体の中に入っている=肉体的・感覚的記憶としていつでも再生可能』
一夜漬けで丸暗記した歴史の教科書の知識と、何十回もトライして身につけた鉄棒の
逆上がりの違いに近いんじゃないかと(卑近ですんません)。
前者はテストが終わったらメモリーから消え去るけど、逆上がりの感触は何十年後も憶えてたり(注:私は人生に於いて一度も逆上がりに成功してませんがw)。
逆上がりのことを考えると、小学生のあの日、校庭の片隅で握りしめた鉄棒の感触、だんだんこすれてマメのできた掌、鉄棒の後の手の平のサビ臭い匂い、ぶらさがった時逆さまに見た地面がそこだけ抉れてたこと、鉄棒の横にあったポプラの木、夕焼け…そんなことまでがつらつらとビデオの再生シーンのように出て来る。
つまり、キムラは台本を文章としてでなく、自らの肉体的・感覚的経験として記憶
してるんだな〜…。
だからまるで目の前で起っているかのように喋ったり、再現したりできるんだろうし
ライブで他面のフォーメーションまで正確に説明できるんだろうな。
記憶しなくても身体に入る。
だから彼は、台本を台詞としては喋らない。
どの役のどの台詞も、彼の中ではある意味<体験>にすり替わるので…。
これって役者として誰もが欲しい凄い能力じゃないのかしら。
(バカ安置が何をやっても、って言いたがるのもこれが一因ではあるのだが)
ということで、昨日のわっつは収穫があったし、キムラも嬉しかっただろうし。
そうそう、HEROについて最後に
「スタッフに感謝、キャストに感謝、そして何より受けとってくれた人たちに感謝」
と語ってたけど、ライブでも毎回同じこと言ってますねw
『俺らは生かされてるんや』by.さんま
を、地でいくキムラにとって、届いている確かな手応えはかけがえのないもの。
数字やカオナシのようなメディアの言葉を、彼は信じない。
受けとってくれる人たちの、言葉を、リアクションだけを、彼は信じる。
わっつがあってよかったです…。
コメント
最近なかなかこちらに来られなくて…今更ながらですが
法廷のシーンでは私もそこまではわからなかったですが
墓前のシーンからの流れで鍋島次席の存在は感じていました。
HTさまの言葉にうるうるしてしまいました。
ワッツがあって本当に良かった。
これからも拓哉くんに想いを伝えていきたいと思いました。
拓哉くんってなんていいヤツ ますます好きになります☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
キムラの言葉って言葉以上の何かだなと時々思います。
微妙なニュアンスの変化で、その時彼の感じている感覚、見ている景色が伝わって来る。
彼自身、自分のそんな特性をよく分かっているからこそダイレクトに伝わっている感じを何より大切にしたいのかも。
一時期、わっつがわっつの役割を果たしてなかった時は私たちもだけど、キムラ本人ももどかしかったかもしれませんね。
個人的な希望としてさらに舞台なんかやってくれちゃったりしたら、最高なんだけどなー…。