悼む。

2014年11月19日 日常 コメント (2)
日記を描いたりツイッターで呟いたりする。
人それぞれ自分ルールみたいなものがあると思う。
私の場合は『自分に正直に書くこと』。
例えば有名な方が亡くなったとき。
さしたる思い入れもないのに悼みの言葉を呟くとかブログに書くとか、そういうのは
どうしても抵抗があるので、よほどでない限り書かないようにしている。
ご本人にもその人を慕っていた人たちにも失礼な感じがしてしまうので。
何となく、ですけど。

先日、高倉健さん死去のニュースが流れた。
「嘘だろ?」と思った。
その瞬間、私の中に生まれた予想外の喪失感。

私は高倉健さんの出演した映画をあまりちゃんと見た事がない。
『幸福の黄色いハンカチ』は高校生だったか、学校の体育館の上映会で見た。
(途中で寝てしまいました。ごめんなさい。)
『野生の証明』はおぼろげに憶えてます。
『ブラックレイン』はめちゃくちゃカッコよかったです。好きです。
(故・松田優作も出演してましたね)
少し前、NHKのドキュメンタリーで見た彼の素顔はとても魅力的であった。
それから『不器用ですから』のCMは好きだったなぁ…(ちなみに音楽は坂本龍一)
その程度の私がなぜこれほど衝撃を受けたのか。
しばらく考え、はたと気づいた。
私は何となく「高倉健は死なない」と思い込んでた気がする。
昭和から平成に変わっても、ヤクザ映画がほとんど作られなくなっても、
高倉健は常に何処かに、あたかも日本の空気の一元素のように存在していたと思う。
私は個人としての彼をほとんど何も知らない。
しかし映画俳優としての彼ならよく知っている。
見た作品数がとても少なかったとしても。
そう、彼は<スター>なのだ。
スターは人でありながら人間ではない。
もの凄くたくさんの人の幻想の中に住む、いわばファンタジックな存在なのだ。
たぶん私は無意識のうちに高倉健をファンタジックな存在として認識していた。
その死は、ファンタジーの中に突然入った巨大な亀裂のようなものだ。
永遠に不変の存在などない、という当たり前のことを改めて突きつける。
私の受けた衝撃と喪失感はそういうことだったのだろう。

東映の献花台に手を合わせるひとたちの映像を見ながらそんなことを考えていた。

コメント

nophoto
yukie♪♪♪
2014年11月23日13:03

いつも読ませて頂きありがとうございます。

私も、同じ様な時系列で高倉健さんの作品と出会い、あまり深い部分は知らないまま
の空気的永遠的な存在でした。
長い歴史があることは歴然としているのに、関わらずにいた自分が喪失感を味わいました。これはなんなんだろう?とも思いましたが

>ファンタジーの中に突然入った巨大な亀裂のようなものだ。
永遠に不変の存在などない…
私にとっては、正にそういったものかもしれない、と思いました。

自分が表現出来ない、わからないまま通り過ぎて行く感覚や思いを上手に表現されている文章に巡り合えると、とても嬉しい、得した気分になります。
ありがとうございました。

HT
2014年11月23日23:10

yukie様、こんばんは。

連日高倉健さんの追悼番組が放映されていますね。
この方の不在を埋めることはたぶん誰にもできないんじゃないかと思います。
他では替えがきかない存在…それがスターなのかも。
文章を褒めていただいてありがとうございます。
自分の何となく抱えている思いに形を与えてくれる言葉に出会うと嬉しいですよね。
コメントありがとうございます。