1999年、MR.のインタビューの見出し。

「スタートラインはあくまでも商品。
 パッケージは自分以外の人間が用意してくれた。
 その商品が脈打つか打たないかは、中身次第。」

幻想的なまでに美しいポートレイトに添えられたこの上なくリアルなことば。
先日ちょっとTwitterでも話題になった女性週刊誌のインタビューと重なる。
で、同じことを昨夜のわっつでも話してましたね。
AERAの記事で<俳優、歌手>と紹介されてたけど違和感はないのですか?って、
少々(というかかなり)不躾な質問にあっさりと、明確に。

公的な書類に職業を書き込む時はいつもちょっと迷う。
<俳優>と書いたことは何度かある。歌手はない。
シャレが通じそうな場面で<SMAP>と書いたこともある。
特に自分では拘りはない。
(紹介する)媒体で肩書きも変わるし、ああそういう見方なんだなと思う位で、
自分から「こんなふうに紹介してください。」と言うことはない。

木村拓哉はいくつもの肩書き=パッケージを持つ。
それは彼を世に紹介したい人とそれを受けとった側の人が決めることで、彼自身が
「僕をこう見てください。」とコントロールすることは全くない、と。
誰だって人に良く思われたいし(良く=善人って意味じゃなく)、できたら自分を
こんな人だと思ってほしい。 と、思っている。
自分の周りの人たちに対してもだし、不特定多数の人の目に止まる可能性があるなら
尚更だ。
現にこうやって辺境のブログに文章を書いてるだけの私ですら、それはある。
ましてや…木村拓哉だよ?
そしてふと、これは木村自身の肩書きだけでなく、木村が関わった作品に対しても
全く同じスタンスじゃないかと気づいた。
公開中の映画HEROのインタビューでも
「一旦僕らの手を離れたらあとは皆さんのもの。自由に見ていただけたら。」
という意味のことを語っていた。
sまpの楽曲にしても<僕らは配達人>って常々語ってますが、根っこは同じだろう。
1999年インタビューから2015年のわっつまで、16年間変わらないスタンス。
そりゃ心の中では「こんなふうに受け止めてもらいたいな」ってのはあるだろうけど
敢えて口にしないし態度にも出さない。
イメージを固定しない。
受け手をコントロールしない。
そして同時に、これこそが20年間第一線に立ち続けてこれた理由の一つかもなと。
これをやったらこう思われるんじゃないか?
こうやったらきっとこんな反応が返って来るだろう。
しかし不特定多数を相手にする限り、思惑通りに行くとは限らない。
受け手を自分の欲求(=こう見られたい)に合わせてコントロールを試みるのは
自分で自分を縛ることにも繋がりかねないと思う。
コアなファンだけを狙う戦略ならとても有効だろうけれど反面、可能性を限定し、
受けとってくれる人たちを前もって選別することになる。
そうしないことに、木村がどれだけ意識的なのかはわからない。
けれど、そうしなかった彼の直感を素直に凄いと思う。

わっつでは映画HEROの話も興味深かった。
ラストシーンの二人の会話の部分。
お松と木村が並んでメイクっちゅーシチュエーションにもなんか萌えたけど(笑)、
その場で二人で話し合って、鈴木監督の前でやってみせて、採用されたエピソード。
いいね。
すごくいい。
お松と木村の関係性の深さがよく分かる。
HERO TVの松タクデートの感じ。
そして木村が話してくれる現場での感じ。
プロだな。
役者さんってクリエイターでもあるんだよね、って改めて思った。
もちろん役者さんのクリエイションは一人で成立するわけじゃない。
たくさんのスタッフの尽力と惜しみない智慧が注ぎ込まれた上に成立する。
しかし受け手の私らに届くのは、映像や舞台で役者さんが演じることで色づけされた
作品であるのも間違いない。
木村はゼロから全てをコントロールするタイプのクリエイターではない。
しかし渡された作品の骨格に誰も真似できない色をのせ、形を作り、音を出し、
時には匂いや空気感まで感じさせることができる。
その意味で、彼は素晴らしい才能のあるクリエイターだと、私は思う。

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