http://session.gaga.ne.jp
名門音楽大学に入学したドラマーのニーマンと伝説の鬼教師フレッチャー。
自信と野心満々のニーマンがフレッチャーの主催するジャズバンドにスカウトされた
ところから始まるんだけど、フレッチャーのキャラクターがいきなり凄まじい。
わずかな音程のズレ・リズムの外しを決して許さない。4文字言葉連発・差別用語の嵐、物は投げるわ手は出るわで、鬼教師というより戦争映画に出て来る鬼軍曹のほうがピッタリくる。
一方のニーマンも自意識過剰で超負けず嫌い。というかバンドの全員がそんな感じで
いや、あれ位でないと自分のポジションは死守できないんだろうけど。
(その凄まじさは上に貼ったURLからサイトに飛んでトレーラーでご覧ください)
舞台はほとんど校内の練習用スタジオ。
ドアを閉めれば音が漏れない部屋は外界から隔絶され、常に極度の緊張状態、全員が一種のマインドコントロール下にある密室。
映像は黒っぽく、楽器以外ほとんど何もないセットの閉塞感。
フレッチャーが厳しいのはきっとジャズを愛しすぎ、完璧な演奏に拘りすぎた結果に違いないと最初は思っていた。が、人格を完全否定する凄まじい罵倒と体罰。
この人単なる病的サディストか?
完璧な音の追求は言い訳で、人格破壊が目的じゃないか?
もちろんニーマンも他のメンバーも同様の疑問を抱かずにはいられないけれど、
彼の指導でより高度なレベルに到達できるのも事実、辛くてもしがみつくしかない。
家族も恋人も普通の大学生らしい生活も全てを犠牲にしてフレッチャーに食らいつく
ニーマンの精神が限界に近づいた時、ある事件が起きる。
映画のラスト10分。
この10分のために、全てのシーンがある。
フレッチャーの不可解なまでのサディスティックな振る舞い。
痛みと失意の中でドラムを叩くニーマンの狂気。
見ているこちらを追いつめるほどに執拗に描いたのはそのためだったのか。
奇跡のような瞬間にのみ奏でられる<完璧な>音楽のエクスタシー。
そのハーモニーと快楽を知りながら、おそらく才能には恵まれなかった男。
天賦の才を持ちながら志半ばで挫折した青年。
フレッチャーとニーマンの関係性は、憎しみ・怨み・嫉妬・反発・悔恨…
あらゆるネガティブな言葉に彩られている。
その二人が真っ向から対峙し、お互いを食い合う修羅の形相で向き合って奏でる
セッション。
力でねじ伏せ、足元に押さえ込み、肉も骨も喰らい尽くそうと気力と体力と昏い感情のエネルギーのありったけを込めた音の闘いが思わぬ奇蹟を産む。
反発は共振へ、怒りと憎しみは共鳴に飲み込まれ、渦巻く怨讐は白熱した炎となって全てを焼尽す。
挑発し、食らい付き、反発しながら絡み合い、外側の世界は完全に消滅する。
人の想い…感情や思考を一撃でなぎ倒す<表現すること>への恐るべき熱。
そこに、奇蹟のセッションが生まれる。
もしかするとこの一度限りのセッションこそが人生の最高地点だったりして。
残りの人生全てでこの瞬間のまぼろしを追い求めることになったら…。
一度きりの奇蹟を味わった者のその後。
考えるとちょっと怖くなる。
木村拓哉曰く
「あからさまにエネルギーを使っていて、作品づくりへの本気度が
ビシバシ伝わってくる。」
短くてシンプルな言葉だけど、見終わってからだと余計ズシンと響く。
ほんと、その通りの作品だし、作品づくりに関わる人ならではの感想だとも思う。
セッションはジャズ(音楽)の魔力に取り憑かれ、人の道を踏み外しそうな人々の
痛々しいけれど崇高でもある作品だった。
<音楽>の部分を<映画>や<舞台>や<ダンス>や<絵画>や、あらゆる表現の
言葉に置き換えることもできる。
彼も、もしかしたらその瞬間を追い求めている最中なのだろうか。
名門音楽大学に入学したドラマーのニーマンと伝説の鬼教師フレッチャー。
自信と野心満々のニーマンがフレッチャーの主催するジャズバンドにスカウトされた
ところから始まるんだけど、フレッチャーのキャラクターがいきなり凄まじい。
わずかな音程のズレ・リズムの外しを決して許さない。4文字言葉連発・差別用語の嵐、物は投げるわ手は出るわで、鬼教師というより戦争映画に出て来る鬼軍曹のほうがピッタリくる。
一方のニーマンも自意識過剰で超負けず嫌い。というかバンドの全員がそんな感じで
いや、あれ位でないと自分のポジションは死守できないんだろうけど。
(その凄まじさは上に貼ったURLからサイトに飛んでトレーラーでご覧ください)
舞台はほとんど校内の練習用スタジオ。
ドアを閉めれば音が漏れない部屋は外界から隔絶され、常に極度の緊張状態、全員が一種のマインドコントロール下にある密室。
映像は黒っぽく、楽器以外ほとんど何もないセットの閉塞感。
フレッチャーが厳しいのはきっとジャズを愛しすぎ、完璧な演奏に拘りすぎた結果に違いないと最初は思っていた。が、人格を完全否定する凄まじい罵倒と体罰。
この人単なる病的サディストか?
完璧な音の追求は言い訳で、人格破壊が目的じゃないか?
もちろんニーマンも他のメンバーも同様の疑問を抱かずにはいられないけれど、
彼の指導でより高度なレベルに到達できるのも事実、辛くてもしがみつくしかない。
家族も恋人も普通の大学生らしい生活も全てを犠牲にしてフレッチャーに食らいつく
ニーマンの精神が限界に近づいた時、ある事件が起きる。
映画のラスト10分。
この10分のために、全てのシーンがある。
フレッチャーの不可解なまでのサディスティックな振る舞い。
痛みと失意の中でドラムを叩くニーマンの狂気。
見ているこちらを追いつめるほどに執拗に描いたのはそのためだったのか。
奇跡のような瞬間にのみ奏でられる<完璧な>音楽のエクスタシー。
そのハーモニーと快楽を知りながら、おそらく才能には恵まれなかった男。
天賦の才を持ちながら志半ばで挫折した青年。
フレッチャーとニーマンの関係性は、憎しみ・怨み・嫉妬・反発・悔恨…
あらゆるネガティブな言葉に彩られている。
その二人が真っ向から対峙し、お互いを食い合う修羅の形相で向き合って奏でる
セッション。
力でねじ伏せ、足元に押さえ込み、肉も骨も喰らい尽くそうと気力と体力と昏い感情のエネルギーのありったけを込めた音の闘いが思わぬ奇蹟を産む。
反発は共振へ、怒りと憎しみは共鳴に飲み込まれ、渦巻く怨讐は白熱した炎となって全てを焼尽す。
挑発し、食らい付き、反発しながら絡み合い、外側の世界は完全に消滅する。
人の想い…感情や思考を一撃でなぎ倒す<表現すること>への恐るべき熱。
そこに、奇蹟のセッションが生まれる。
もしかするとこの一度限りのセッションこそが人生の最高地点だったりして。
残りの人生全てでこの瞬間のまぼろしを追い求めることになったら…。
一度きりの奇蹟を味わった者のその後。
考えるとちょっと怖くなる。
木村拓哉曰く
「あからさまにエネルギーを使っていて、作品づくりへの本気度が
ビシバシ伝わってくる。」
短くてシンプルな言葉だけど、見終わってからだと余計ズシンと響く。
ほんと、その通りの作品だし、作品づくりに関わる人ならではの感想だとも思う。
セッションはジャズ(音楽)の魔力に取り憑かれ、人の道を踏み外しそうな人々の
痛々しいけれど崇高でもある作品だった。
<音楽>の部分を<映画>や<舞台>や<ダンス>や<絵画>や、あらゆる表現の
言葉に置き換えることもできる。
彼も、もしかしたらその瞬間を追い求めている最中なのだろうか。
コメント
お帰りなさいませ。良い時間を過ごされたようですね、ただしお帰りの飛行機延着はお気の毒でございました!
私も同じ頃関西に行っていて、甥たちと神戸のネウストリア大使館や難波支部等を回って来ました。ちょっとミーハーな気分を味わえて思い出に残る休日でした。
教えていただいた覇王木村、私も友人のお蔭で見れました。ブラック久でしたね。きっとプロが撮ったんではないかと思います。42歳の堂々としたステキな
紳士!久利生公平の影も形もない、全く別人の木村さん。あれでドラマか映画が
見たいです!
セッション、そんなに凄いんですね。
音楽教師って程度の差はあれ、みんなどこかフレッチャー的要素を持って
います。学生時代にしっかりしごかれましたもん(笑)。
ある声楽の先生は「こんなのも出来ないんだったら豆腐の角に頭打ち付けて
死んでしまえ!」
ピアノの先生はひとつ音を外そうものなら全然その先見てくれないし、
数回間違いをすると、さっさと席をはずして「出来たら知らせて」。
ともかく一日最低8時間は練習すること、が日課でした。
だから学生はみんな痩せていて、一年中緊張しっぱなし。
(それでも上手くいったときの恍惚感はやはり何ものにも替えがたい
ものがありましたが、それもまれにしか味わえませんでした)
そのためか「ロンバケ」の瀬名を見て、あんなんでボストンに行けるなら
日本中の音大生、みんな行けるわって思ったので、あのドラマで木村さんに
落ちることはありませんでした(笑)。
それがどうしたことか、今では覇王木村に憑りつかれてます(苦笑)。
裕子様は関西へお出かけされたのですね。
ネウストリア大使館のインテリア、一角獣のタペストリーが印象的でした。
映画やドラマのロケ地は今は検索すれば簡単に見つかりますよね。
甥っ子さんもHEROをご覧になられたんでしょうか。
映画セッション、凄かったですよ。
評論家の町山氏と菊地氏がネットで応酬してるよと教えてもらって読みました。
双方の主張がちょっとずつズレてるのでこりゃ平行線だなぁと思いましたが(笑)、
論争になるってことは時間と労力を使って考えてみる価値があるってことだなぁと。
裕子様は音楽を勉強してらっしゃったんですね。
楽器や歌を技術的に習得するには相当な鍛錬が必要だろうな、と素人の私でも想像は
つきますが、プロフェッショナルのためのそれは並大抵なものではないでしょうね。
プラス、表現には(何でもそうでしょうけど)センスとか肉体的な適性が大きい気が
いたします。音楽なら喉が強い、耳がいい、とか。センスは生まれ育った環境に左右
されるでしょうし、本人が目指したからといって上手くいくものでもなく。
完璧な演奏ができたときの恍惚感…それは選ばれた人だけのものかもしれません。
「ロンバケ」はリアルタイムで見てなくてDVDで見ました。
面白かったですよ。演奏部分は確かに??ですけど、フィクションなので(笑)
覇王木村は凄かったですねー…。
Vogueのパーティでテスティーのが撮った一枚も相当なもんでしたが。
Vogueの写真はインスタにUPされてたんですが、他にもたくさんの芸能人や有名人がアップされてる中で、木村の一枚だけがやたらとコメントついてました。
「Super Cool!!!!」だって。
今回の流出写真も木村拓哉を知らない人が見てもSuper Cooooool!!!!ですよね。
マネージメントもそろそろ本人の適性を最優先に適材適所の采配をふるっていただきたいっすね。
甥の子供(小5年)はどうしたわけか検事でなくて弁護士になりたいと
言っています。久利生検事が中卒で大検から司法試験合格という
知識を得て(父親から)、六法全書を買ってくれと言ってます。
今から少しずつ読んでいれば高校生ごろには法律のこともかなり
詳しくなるだろうからとのこと。どうやら大学には行かず、久利生検事と
同じルートをたどるつもりのようです(我々大人は呆れてものも言えません。
映画を見せて良かったのかどうか・・・)
甥の車で神戸に行ったのには訳があり、「デートっぽくするね」と「セルフオープンでごめんね」を彼に言わせようと思ったのですが、生憎小学生3,5と妹との5人でのドライブでそれどころではありませんでした(笑)。
何のプロでもその努力たるや本当に大変だと思います。
だから先ほどの「のど自慢」収録の際のコメント
「歌は大して上手くなくても心があればOKだ」という某メンバーの言葉には今もってついていけません。
ある著名な歌手の方は一度だけ舞台で声がひっくり返ったことで現役を退かれ
ましたし、私の恩師のピアニストも舞台でたった一度ミスをされたのですが、それを悔やまれて現役を去りました。
音楽の分野が違うし、観客も違いますから心が届きさえすればいいのかも
知れませんが、口パクや音程フラフラの歌には心も宿り辛いのではないかと
心配です(笑)。
覇王木村さん、本当にsuper Cooooooo!!!
今、ビジュアルいいですよね、このままで次にお仕事期待したいです。
木村さんは自分では積極的にこうしたい、ということを言わないようですが、
何故でしょうかしらん。
しかしその前に映画・HEROをしっかり応援したいです!
大検から司法試験合格は大学で学んでパスするより大変かもしれません。
でも、まだ小5ですからね。
木村の台詞は小学生には高度すぎると思います(笑)
「のど自慢」でそんなコメントがあったのですか。
のど自慢自体、鐘の音で判定されるんじゃなかったでしたっけ?
誰のコメントかはわかりませんが、歌そのものを期待されてるわけじゃないので、
という意味かもしれないですね。
テクニックより心、というのは一理あると思いますが、最低限ここは押さえてね、
って思うのもあり(笑)
心、というなら歌詞の解釈ですよね。
お芝居と同じで読み込みの深さやメロディとのバランスは大切と思います。
>>木村さんは自分では積極的にこうしたい、ということを言わないようですが、
何故でしょうかしらん
どうでしょうね。
実際見聞できるのは記事や映像のインタビューの部分だけですし、それ以外の時間
(打ち合わせとか)で誰とどんな話をしてるかは見えませんしね。
ヘタに口にしたせいでややこしくなる場合もあるかもしれません。
ああしたい・こうしたいと言わない=消極的、控えめ、とは限らなくないですか?
逆に言うと、「どんな役をオファーされてもハードルを超えられる」自信かも。
「求められれば、赴きたい。」ってつい最近のAERAのインタビューでも語ってましたが、私は受身の態度とは思えなかったです。
まぁ彼はほんっと、分かりやすそうで本音の見えない人ですから…(笑)