古本屋でちょっと前のキネ旬を見つけた。
2006年の11月上旬号。
『武士の一分』で剣術指導をなさった箕輪 勝氏のインタビューだ。
全体を通して剣道という視点からみた木村拓哉という人の精神=内面を垣間見える
興味深い内容だけれど、とりわけこの二つが印象に残った。

「普通目隠しをする場合、目をつぶってやるのですが、彼は直接手拭で目隠しするという」「これは、すごい恐怖感がるのですよ。」
「目を閉じてるだけなら、いざとなれば開けばいい。本当に目隠しをしてしまうと
それができない。ちょっと信じられなかった」

「例えば『構えを鋭くしたい』と注文すると自分なりに考えて<雷光>という構えがあるんですが、それを彼は『やる」と」
「僕らは伝書を魅せただけですから想像もしてなかったわけですが」
「監督も『恐ろしい構えだね』とおっしゃって」

前者には彼の言う『役を生きる』スタンスが端的に表れていると思う。
盲目の武士を演じる。
新之丞はどんな不自由で恐ろしい状況でも<見る>ことができない。
僕は彼。
ならばその恐怖感も不自由さも味わって自分のものとしたい。
理に適った考えではある。
でもそれを<やる>潔さ、腹の据わり方に鳥肌が立った。

後者では監督の要求を理解するセンスと映像的なイマジネーションの的確さ。
剣術指導の箕輪氏が「想像もしてなかった」構えを取り込む柔軟さ。
もちろん形に<できる>力があってこそだけれども、その構えが<どんなふうに>
見えるのか、俯瞰の目線が生きてくる。
役者は誰でも持ってるだろうけど、木村のそれは尋常でない。
彼の頭上少し上に目に見えない専用カメラが常にあって、自分で自分の動きを
モニタリングしてるのでは?なんて時々思うほど(笑)

箕輪氏のインタビューは木村拓哉の心と身体に沁み込んだ剣道についての詳細な
レポートでもあるんだけど、図らずも木村拓哉の演技論みたいな部分とも直結して
いくんじゃないかと思う。

…それらを踏まえて『無限の住人』への彼のチャレンジを想像すると、やっぱり
興奮せずには居られないのです。

コメント

nophoto
裕子
2015年10月24日21:14

HT様

また書き込みが消えてしまいました・・・
短くします。

2006年のキネ旬の記事教えて下さって有難うございました。
木村さん33歳の時ですね。
もうすでに、演じることはすなわち生きること、という観念を
持っていたように思えて本当に鳥肌たちました!

<自分で自分の動きをモニタリングしているのでは。。。>

これってどんな分野での一流の表現者にも共通している重要な
要素のように思えます。演技者と傍観者との二面性を常に持って
いるということですよね。

熊本にある本蔵院というお寺に木村さんの
「手を抜くほうが疲れる」と書かれたものがあるとか。

きっと無限の住人も大丈夫ですね!
このブログを拝読して
私もそう思えるようになりました。

HT
2015年10月25日21:40

裕子さんこんばんは。

たぶん木村はお芝居の楽しさと底知れぬ深さを実感したときからずっと、
演じることは生きること、と思い定めてきたのではないかと思ってます。
表現者/観察者の目を持ちながら同時にモニタリングする。
先天的にしろ後天的にしろ、それを持たない人でないと一流になれない。
きっとそうですね。

『無限の住人』
あの長い長い物語をどう一本の映画にまとめるのか?
怖い気がしますが…楽しみでもあります。
きっと木村も、そんな気持ちじゃないでしょうかね。
今月号のポポロのインタビューに今の心境が少しだけ語られてます。