中国の空は広い。
大地は遥かかなた、一直線に空との境目へと続く。
埃っぽい赤茶色の大地に背の低い草原がどこまでも広がり、
立ち尽くし眺めていると軽く目眩を覚える。
ふと目を凝らすと遠く米粒大に動くものがある。
だんだん近づいてくるとそれは人と羊と馬。
モンゴルの遊牧民、陽に焼けたなめし革のような肌、
人懐こい笑顔。
広い大地を縦断する列車へ乗り込む。
薄暗い車内。
ポツポツと埋まった席で物思いに耽る人、低い話声、時々笑い声が混じる。
質素な藍染のブラウスを着た老婦人が新聞に目を凝らしている。
所在無げに煙草を吸う男。
手編みの毛糸の帽子を被った赤ちゃんを抱っこした若い母親。
ところどころ錆びた手洗い場。
デッキには麻袋に詰め込まれ観念したような鶏たち。
列車は単調なリズムを休みなく刻み、揚子江を超え、灰色の空の下に張り付くように
ひっそりと家々が点在する風景を抜けていく。
スモッグの中に唐突に未来的な高層建築のシルエットが浮かび上がってくる。
北京。
天安門で記念写真。
紫禁城のすぐそばをゆったりと川が流れ、対岸は煤けた家並が続く。
公園では静かに太極拳をする年寄や麻雀に興じる男たち、幸せそうな家族。
南下して蘇州。
「蘇州夜曲」のメロディのように柔らかな緑と古き良き時代の面影の残る街並。
漆喰壁の家、食堂の裏庭まであふれる湯気、公道でのんびり髪を切る青空床屋。
次は上海の朱家角。
水路が張り巡らされた街のそこここに古い石の橋が掛かっている。
のんびりと小舟が行き交い、恋人たちが寄り添い川を眺めている。
家並みはまさに「古き良き時代の中国」の風情を醸し出し、最後の王朝の時代から
時が止まってしまったような錯覚を覚える。
写真家の上田義彦氏が1980年代後半から2011年まで度々訪れた中国。
装丁からも察せられるように、これはとてもノスタルジックで端正な本です。
父の書棚を整理していたら奥のほうに仕舞い込まれていたアルバム。
そこから見つけ出したような空気を纏っている。
うっすらブルーグレイのフィルターを通したような、記憶の靄から現れるような。
眺めているといつの間にか私の目は上田氏のそれと同化し、
私の記憶がその記憶とすり替わったような不思議な錯覚を覚える。
そしてたぶん、こんな風景はもう地上のどこにもないのかもしれないという、
根拠もないのに確信に似た直感に胸が締め付けられる。
そんな写真集です。
大地は遥かかなた、一直線に空との境目へと続く。
埃っぽい赤茶色の大地に背の低い草原がどこまでも広がり、
立ち尽くし眺めていると軽く目眩を覚える。
ふと目を凝らすと遠く米粒大に動くものがある。
だんだん近づいてくるとそれは人と羊と馬。
モンゴルの遊牧民、陽に焼けたなめし革のような肌、
人懐こい笑顔。
広い大地を縦断する列車へ乗り込む。
薄暗い車内。
ポツポツと埋まった席で物思いに耽る人、低い話声、時々笑い声が混じる。
質素な藍染のブラウスを着た老婦人が新聞に目を凝らしている。
所在無げに煙草を吸う男。
手編みの毛糸の帽子を被った赤ちゃんを抱っこした若い母親。
ところどころ錆びた手洗い場。
デッキには麻袋に詰め込まれ観念したような鶏たち。
列車は単調なリズムを休みなく刻み、揚子江を超え、灰色の空の下に張り付くように
ひっそりと家々が点在する風景を抜けていく。
スモッグの中に唐突に未来的な高層建築のシルエットが浮かび上がってくる。
北京。
天安門で記念写真。
紫禁城のすぐそばをゆったりと川が流れ、対岸は煤けた家並が続く。
公園では静かに太極拳をする年寄や麻雀に興じる男たち、幸せそうな家族。
南下して蘇州。
「蘇州夜曲」のメロディのように柔らかな緑と古き良き時代の面影の残る街並。
漆喰壁の家、食堂の裏庭まであふれる湯気、公道でのんびり髪を切る青空床屋。
次は上海の朱家角。
水路が張り巡らされた街のそこここに古い石の橋が掛かっている。
のんびりと小舟が行き交い、恋人たちが寄り添い川を眺めている。
家並みはまさに「古き良き時代の中国」の風情を醸し出し、最後の王朝の時代から
時が止まってしまったような錯覚を覚える。
写真家の上田義彦氏が1980年代後半から2011年まで度々訪れた中国。
装丁からも察せられるように、これはとてもノスタルジックで端正な本です。
父の書棚を整理していたら奥のほうに仕舞い込まれていたアルバム。
そこから見つけ出したような空気を纏っている。
うっすらブルーグレイのフィルターを通したような、記憶の靄から現れるような。
眺めているといつの間にか私の目は上田氏のそれと同化し、
私の記憶がその記憶とすり替わったような不思議な錯覚を覚える。
そしてたぶん、こんな風景はもう地上のどこにもないのかもしれないという、
根拠もないのに確信に似た直感に胸が締め付けられる。
そんな写真集です。
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