クエイ兄弟 The Quay Brothersーファントム・ミュージアムー
2017年7月17日 趣味http://www.shoto-museum.jp/exhibitions/173quay/
クエイ兄弟の映像を初めて見たのはたぶん80年代の終わりか90年代の初め頃。
渋谷のユーロスペースだったと思う。
怪しげな男がモノクロームの画面に映し出される。
部屋には奇妙な仕掛けがついた箱が置かれている。
男が覗き込み、唾を一滴・・・それを合図に、箱の中で人形が息を吹き返す。
小さくグロテクスで古びて埃っぽい、甘美なる廃墟の世界が、
邪悪で無垢で物悲しい、子供のような残酷さを孕んで動き出す。
言葉で説明するよりも映像を見てもらえば一発で伝わるので是非。
「STREET OF CROCODILES 」
https://youtu.be/UIGEjEu0bn4
美しいものが好きです。
けれど綺麗なだけのものには心惹かれない。
古びたもの、とくにかつてそこに人がいた痕跡が気配のように漂う廃墟。
誰かの手が触れたであろう古着やアクセサリー、陶器の人形、仮面。
それらがひっそりと埃をかぶっている、鍵のかかったアンティークショップ。
どことなく後ろめたさを感じながら曇ったガラス越しに、あるいはドアの隙間から
こっそりと覗き込む。
モノたちがもしかしたら勝手に動き出したりしないだろうか?と半ば期待しながら。
子供の頃、町外れに廃屋があった。
廃業した医院の閉鎖された塀の隙間から覗き込むと、洋館風の建物の割れた窓から
薬瓶らしきものが並んで、無造作に転がったりしているのが見えた。
「見ちゃいけない!!」
誰かの影を見た気がして、後も見ないで逃げ帰った。
クエイ兄弟の映像作品を見るのはそんな気分にとてもよく似ている。
朝起きたらほとんど忘れ去っている夢の世界。
昏く後ろめたいのに甘美な、幻の感触だけが舌先に残っている感じ。
もう一度、昨夜の悪夢の中に入っていく感じ。
忘れた物語を、わたしの頭の中から盗み出し映写機で映し出すような。
クエイ兄弟によるコムデギャルソンの香水CM
「wonder wood」
https://youtu.be/oxtjoH--GbA
今回の展覧会で初めて見たクエイ兄弟のドローイング。
ほとんどの作品が鉛筆だけで描かれた精密なデッサンの、幻覚のようなもの。
闇は漆黒ではなくモヤモヤした黒煙が濃く立ち込めたように見える。
闇の向こうにぼんやりと工場のようなダムのような構造物があったりする。
または絶えず変形し不安定な部屋の中だったりする。
人物は大抵顔がはっきりせず、気配の中に不安そうに取り残されている。
何かが起こりそうな不穏な空気。
恐ろしいものが待っているけれども「それ」が姿を表すことはたぶん永遠にない。
ホラー映画で一番怖いのは殺人者や怪物が姿を現す瞬間ではない。
気配があるのに、モヤモヤした闇のせいで「それ」が見えないシークエンスだ。
一番怖い部分・・・不穏な空気が張り詰めて遠くから何かがやってくる気配。
永久に見えないそれを見つめ続ける時間の中に宙づりになるほど怖いことはない。
この感じはデヴィッド・リンチやフランシス・ベーコンを思い出させる。
しかしリンチのどことなく子供じみた陽気な狂気とは違うし、
フランシス・ベーコンのように挑発的・攻撃的な感じでもない。
世界は昏く閉じられているが同時に外に向かって開かれている感じがする。
見る人を、拒否したり攻撃したりの意図はない。
それはたぶん、二人が一卵性双生児で、ドローイングも映像も全てが
二人の共同制作だからと思う。
一卵性双生児はふしぎ。
一つの卵子から生まれたふたつの人格。
一人と一人で、二人でひとつ。
クエイ兄弟の作品は初期の鉛筆だけで描いたモノクロのドローイングから
二次元の人形アニメーション(一分の映像に千カットが必要出そう)へ、
そして今は三次元の舞台装置へと広がっているそうだ。
もし、どちらか一人だけだったとしたら?
これほど濃密で緻密でありながら、外へ外へと広がることはできなかったのでは?
と、ふと思った。
クエイ兄弟の映像を初めて見たのはたぶん80年代の終わりか90年代の初め頃。
渋谷のユーロスペースだったと思う。
怪しげな男がモノクロームの画面に映し出される。
部屋には奇妙な仕掛けがついた箱が置かれている。
男が覗き込み、唾を一滴・・・それを合図に、箱の中で人形が息を吹き返す。
小さくグロテクスで古びて埃っぽい、甘美なる廃墟の世界が、
邪悪で無垢で物悲しい、子供のような残酷さを孕んで動き出す。
言葉で説明するよりも映像を見てもらえば一発で伝わるので是非。
「STREET OF CROCODILES 」
https://youtu.be/UIGEjEu0bn4
美しいものが好きです。
けれど綺麗なだけのものには心惹かれない。
古びたもの、とくにかつてそこに人がいた痕跡が気配のように漂う廃墟。
誰かの手が触れたであろう古着やアクセサリー、陶器の人形、仮面。
それらがひっそりと埃をかぶっている、鍵のかかったアンティークショップ。
どことなく後ろめたさを感じながら曇ったガラス越しに、あるいはドアの隙間から
こっそりと覗き込む。
モノたちがもしかしたら勝手に動き出したりしないだろうか?と半ば期待しながら。
子供の頃、町外れに廃屋があった。
廃業した医院の閉鎖された塀の隙間から覗き込むと、洋館風の建物の割れた窓から
薬瓶らしきものが並んで、無造作に転がったりしているのが見えた。
「見ちゃいけない!!」
誰かの影を見た気がして、後も見ないで逃げ帰った。
クエイ兄弟の映像作品を見るのはそんな気分にとてもよく似ている。
朝起きたらほとんど忘れ去っている夢の世界。
昏く後ろめたいのに甘美な、幻の感触だけが舌先に残っている感じ。
もう一度、昨夜の悪夢の中に入っていく感じ。
忘れた物語を、わたしの頭の中から盗み出し映写機で映し出すような。
クエイ兄弟によるコムデギャルソンの香水CM
「wonder wood」
https://youtu.be/oxtjoH--GbA
今回の展覧会で初めて見たクエイ兄弟のドローイング。
ほとんどの作品が鉛筆だけで描かれた精密なデッサンの、幻覚のようなもの。
闇は漆黒ではなくモヤモヤした黒煙が濃く立ち込めたように見える。
闇の向こうにぼんやりと工場のようなダムのような構造物があったりする。
または絶えず変形し不安定な部屋の中だったりする。
人物は大抵顔がはっきりせず、気配の中に不安そうに取り残されている。
何かが起こりそうな不穏な空気。
恐ろしいものが待っているけれども「それ」が姿を表すことはたぶん永遠にない。
ホラー映画で一番怖いのは殺人者や怪物が姿を現す瞬間ではない。
気配があるのに、モヤモヤした闇のせいで「それ」が見えないシークエンスだ。
一番怖い部分・・・不穏な空気が張り詰めて遠くから何かがやってくる気配。
永久に見えないそれを見つめ続ける時間の中に宙づりになるほど怖いことはない。
この感じはデヴィッド・リンチやフランシス・ベーコンを思い出させる。
しかしリンチのどことなく子供じみた陽気な狂気とは違うし、
フランシス・ベーコンのように挑発的・攻撃的な感じでもない。
世界は昏く閉じられているが同時に外に向かって開かれている感じがする。
見る人を、拒否したり攻撃したりの意図はない。
それはたぶん、二人が一卵性双生児で、ドローイングも映像も全てが
二人の共同制作だからと思う。
一卵性双生児はふしぎ。
一つの卵子から生まれたふたつの人格。
一人と一人で、二人でひとつ。
クエイ兄弟の作品は初期の鉛筆だけで描いたモノクロのドローイングから
二次元の人形アニメーション(一分の映像に千カットが必要出そう)へ、
そして今は三次元の舞台装置へと広がっているそうだ。
もし、どちらか一人だけだったとしたら?
これほど濃密で緻密でありながら、外へ外へと広がることはできなかったのでは?
と、ふと思った。
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