ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣
2017年7月27日 映画http://www.uplink.co.jp/dancer/
ELLEの映画特集記事の写真に目を奪われた。
大理石の彫刻のような完璧なフォルムの身体。
白い肌のあちこちに散りばめられたタトゥー。
大きな水色の、どこか動物的な目。
ルネッサンス的な完成された美貌に施された不穏な装飾がノイズのようで
クラシックとハードロックがせめぎ合う感じが面白い。
エレガントで野蛮。そういうのすごくいい。
特にバレエに興味があったわけでもないが、彼のダンスを見たいと思った。
最近、舞台や歌舞伎を映画で見る機会が増えた。
肉体が持つ表現の圧倒的なパワーと饒舌さにやられた。
音楽と、言葉と、肉体。
音楽は空気を作り、言葉は脳を刺激し、肉体は目と心を鷲掴みにする。
そしてダンスは、音楽と肉体(時には言葉)の融合と言える。
それはたぶん人間の根源的な部分にもっとも早く深く到達し、
ストレートに突き刺さる表現なのかもしれない。
彼が高く高くジャンプする。
細く長い手足が信じられないほど素早く大胆に動くのに、体の芯は揺るがない。
だから一瞬、空中で停止したかのように錯覚する。
歩くように、スキップするように、超絶技巧を繰り出す。
ロイヤルバレエ団のプリンシパルとして踊る。
優雅なバレリーナ、力強いダンサー達の中でもひときわ強い光を放つ。
得体の知れないエネルギーが音楽に誘われ空から降りてきて、
美しい青年の肉体を借りて目に見えるかたちで現れたように。
振付を踏襲しながらもはやそれは振付以上の何か、に見える。
「ロイヤルバレエ団の振付は固すぎる」
「僕は振付よりも自分の感じたままに踊りたい」
音楽によって呼び覚まされた衝動が、内側から突き上げ、溢れ出す。
素早いステップ、正確な回転。
喜びも悲しみも怒りも愛も、手と足と指先の動きで空中に描き出される。
それらは単なる感情表現を超えた何か。
高い、完璧なジャンプ。
地球の重力から解放され、天を舞い、空の上に居る何か、に近づき、
エネルギーを放電するエクスタシーの瞬間かもしれない。
セルゲイ・ポルーニンのごく幼い頃、直感的に才能を見抜き、体操選手から
バレエの道へと方向転換させたのは彼の母親だった。
裕福ではない家、貧しい町の子供がバレエ学校へ通う。
学費と生活費を工面するため父と祖母は外国へ出稼ぎに行き、
母は自らの生活の全てを犠牲にし彼のレッスンに捧げた。
アスリートのドキュメンタリーでも見聞きする話だが、
家族のバックアップが欠かせない。
自分のために家族が犠牲になる。
少年の背負ったプレッシャーは想像を絶する。
ひたすらバレエのレッスンに打ち込む。
それ以外の世界を知らずに青年期を過ごし大人になる。
家族の期待に応えなければいけない自分。
家族を愛している。みんなと幸せになりたい。
踊りは好き。ジャンプがうまくいくと生きてる感じがすごくする。
でも、自分が本当にやりたい踊りはこれじゃない。
葛藤が生まれる。極限まで絞られ、徹底的に酷使した体はあちこち痛む。
コカイン、鎮痛剤、興奮剤。
体中に散りばめられたタトゥーは魔除けのようであり自傷行為にも見える。
人に期待される。
自分の踊りを待ち望む人たちを喜ばせたい自分と、表現への衝動・欲望とのズレ。
人並み外れた天分を持ち、それを十二分に発揮できているように見えたとしても。
あるいは、そんな特別なギフトを授かったからこそ、目指すものと期待との
ギャップに苦しむのかもしれない。
上の予告の中にあるソロダンスの曲 “Take Me to Church"
その歌詞に出てくる『彼女』は、子供時代を支配し続けた母であり、
天から降りてきて彼を踊りへと駆り立てる得体の知れぬエネルギーではないか。
一度はダンスを捨てようと決意するほど追い詰められながら、
彼は決してそれから逃れられない。
それは苦痛であり拷問でありながら至上の喜びにちがいない。
普通の人間には耐えられないほどの。
文章でも映像でも、何かをクリエイトする人は皆そうかもしれないが、
ダンスや歌やお芝居など、肉体で表現する人たちのそれは自ずと限界がある。
人間は年をとる。
思い通りに思い切り自由に動けるのは若い時期だけかも知れない。
とりわけ、ダンスはそうかも知れない。
自分の肉体と折り合いをつけねばならない日が来る。
それでも内側からこみ上げる得体の知れない衝動を捕まえ、格闘し、時に傷つき、
生身の体を差し出し続けるのは、喜びでありながら苦痛でもあるだろう。
その結果として見えるかたちに、私たちは感情を揺さぶられ、
素晴らしいものを見たときの、あの喜びに包まれる。
選ばれた人たちはある意味、神に捧げられた生贄かも知れない。
ELLEの映画特集記事の写真に目を奪われた。
大理石の彫刻のような完璧なフォルムの身体。
白い肌のあちこちに散りばめられたタトゥー。
大きな水色の、どこか動物的な目。
ルネッサンス的な完成された美貌に施された不穏な装飾がノイズのようで
クラシックとハードロックがせめぎ合う感じが面白い。
エレガントで野蛮。そういうのすごくいい。
特にバレエに興味があったわけでもないが、彼のダンスを見たいと思った。
最近、舞台や歌舞伎を映画で見る機会が増えた。
肉体が持つ表現の圧倒的なパワーと饒舌さにやられた。
音楽と、言葉と、肉体。
音楽は空気を作り、言葉は脳を刺激し、肉体は目と心を鷲掴みにする。
そしてダンスは、音楽と肉体(時には言葉)の融合と言える。
それはたぶん人間の根源的な部分にもっとも早く深く到達し、
ストレートに突き刺さる表現なのかもしれない。
彼が高く高くジャンプする。
細く長い手足が信じられないほど素早く大胆に動くのに、体の芯は揺るがない。
だから一瞬、空中で停止したかのように錯覚する。
歩くように、スキップするように、超絶技巧を繰り出す。
ロイヤルバレエ団のプリンシパルとして踊る。
優雅なバレリーナ、力強いダンサー達の中でもひときわ強い光を放つ。
得体の知れないエネルギーが音楽に誘われ空から降りてきて、
美しい青年の肉体を借りて目に見えるかたちで現れたように。
振付を踏襲しながらもはやそれは振付以上の何か、に見える。
「ロイヤルバレエ団の振付は固すぎる」
「僕は振付よりも自分の感じたままに踊りたい」
音楽によって呼び覚まされた衝動が、内側から突き上げ、溢れ出す。
素早いステップ、正確な回転。
喜びも悲しみも怒りも愛も、手と足と指先の動きで空中に描き出される。
それらは単なる感情表現を超えた何か。
高い、完璧なジャンプ。
地球の重力から解放され、天を舞い、空の上に居る何か、に近づき、
エネルギーを放電するエクスタシーの瞬間かもしれない。
セルゲイ・ポルーニンのごく幼い頃、直感的に才能を見抜き、体操選手から
バレエの道へと方向転換させたのは彼の母親だった。
裕福ではない家、貧しい町の子供がバレエ学校へ通う。
学費と生活費を工面するため父と祖母は外国へ出稼ぎに行き、
母は自らの生活の全てを犠牲にし彼のレッスンに捧げた。
アスリートのドキュメンタリーでも見聞きする話だが、
家族のバックアップが欠かせない。
自分のために家族が犠牲になる。
少年の背負ったプレッシャーは想像を絶する。
ひたすらバレエのレッスンに打ち込む。
それ以外の世界を知らずに青年期を過ごし大人になる。
家族の期待に応えなければいけない自分。
家族を愛している。みんなと幸せになりたい。
踊りは好き。ジャンプがうまくいくと生きてる感じがすごくする。
でも、自分が本当にやりたい踊りはこれじゃない。
葛藤が生まれる。極限まで絞られ、徹底的に酷使した体はあちこち痛む。
コカイン、鎮痛剤、興奮剤。
体中に散りばめられたタトゥーは魔除けのようであり自傷行為にも見える。
人に期待される。
自分の踊りを待ち望む人たちを喜ばせたい自分と、表現への衝動・欲望とのズレ。
人並み外れた天分を持ち、それを十二分に発揮できているように見えたとしても。
あるいは、そんな特別なギフトを授かったからこそ、目指すものと期待との
ギャップに苦しむのかもしれない。
上の予告の中にあるソロダンスの曲 “Take Me to Church"
その歌詞に出てくる『彼女』は、子供時代を支配し続けた母であり、
天から降りてきて彼を踊りへと駆り立てる得体の知れぬエネルギーではないか。
一度はダンスを捨てようと決意するほど追い詰められながら、
彼は決してそれから逃れられない。
それは苦痛であり拷問でありながら至上の喜びにちがいない。
普通の人間には耐えられないほどの。
文章でも映像でも、何かをクリエイトする人は皆そうかもしれないが、
ダンスや歌やお芝居など、肉体で表現する人たちのそれは自ずと限界がある。
人間は年をとる。
思い通りに思い切り自由に動けるのは若い時期だけかも知れない。
とりわけ、ダンスはそうかも知れない。
自分の肉体と折り合いをつけねばならない日が来る。
それでも内側からこみ上げる得体の知れない衝動を捕まえ、格闘し、時に傷つき、
生身の体を差し出し続けるのは、喜びでありながら苦痛でもあるだろう。
その結果として見えるかたちに、私たちは感情を揺さぶられ、
素晴らしいものを見たときの、あの喜びに包まれる。
選ばれた人たちはある意味、神に捧げられた生贄かも知れない。
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