演じるものへの礼儀。
2017年11月17日 キムラさん コメント (2)メイキング。
三池監督の言葉にぐっと来た。
極寒の京都で、着流しに草履。
着流しの風通しのよさ、草履の冷たさ、砂利の痛さ、それらを通して初めて
感じられることがある。
感じられる。
役作り、とはまた少し違う次元の話だと思う。
イメージから役の思考や感情を組み立てて行くのとは異なる。
もっとリアルで、もっと切実で、もっと直感的なもの。
だから彼は「役を生きる。」と表現するんだろうな。
三池さんはまた、インタビューで「本能的に」「動物的に」と何度か言う。
つまりそれは直感であり、脳で処理された情報でなくむしろ体感に近い。
冷たい空気に晒されれば鳥肌が立つ。筋肉が硬直する。震える。
それらはお芝居のアクションの場面ではマイナスにはならないのか。
一歩踏み出す。冷え切った足裏に硬い小石の感触が響く。
刃を振るう。腕も手のひらも、体自体がかじかんで痛い。
しかし、本気で、死ぬ気で、挑む男の意識の中では、寒さも痛みも薄れて行く。
それは、遠くから微かに伝わってくる肉体の危険信号に過ぎず、目の前の、
まさに自分を斬り殺そうとするものたちの殺気が、暗雲のごとく立ち込める中では
意識の渦の外縁部で微かに瞬くのみ。
殺しに行ってください。
三池監督の言葉が、「自分と同じスタンスでいてくれる人。」と感じられたのは、
たぶんそういうこと、だったのではないかと想像する。
演じるものへの礼儀。
万次として現場に立つ。
それは自分が役を演じるという自分本位の視点からのスタンスでなく、
万次の生の中に自分がお邪魔させていただく感覚、かも。
だからできる限り「万次」の存在に敬意を払い、その感覚を知ろうとする。
彼の痛み。彼の悲しみ。彼の孤独。そして、彼の愛。
ずしっと重く斬り込みながら、ひらりと華麗に躱す身のこなし。
どっしりと揺るがない体幹からくる確かな切っ先の角度。
それを、いわゆる様式美にもせず、アクションの見栄えの良さにも留まらせない、
予定調和を拒否するような、凶暴なうつくしさへと昇華しているのは、
万次を生きるものとしての礼儀・姿勢のあり方かもしれない。
それを、面倒とか馬鹿らしいとか必要ないとかにせず、正面から受け止めた
監督とスタッフと共演者の方々の姿勢があってこそ、あの万次は存在できた。
ICWRでウジ虫が目のふちを這うシーンが話題になったけれど、あの時、
それをやってのける役者根性がすごいのではなく、そこまで深く・絶対的に
Shitaoとして存在できてることが凄いんだと・・・その感じを思い出しました。
「そう感じること」を要求されて、必要とあらばやる。
そこまでしないと万次という男と同化できないと判断したんだろうけれど、
理屈でなく直感、頭でなく身体で、感じ・動くことができる人だからこそ。
魅力ある・才能ある役者さんと仕事してきたけれども次元が違う。
その言葉の意味を、今また反芻しています。
三池監督の言葉にぐっと来た。
極寒の京都で、着流しに草履。
着流しの風通しのよさ、草履の冷たさ、砂利の痛さ、それらを通して初めて
感じられることがある。
感じられる。
役作り、とはまた少し違う次元の話だと思う。
イメージから役の思考や感情を組み立てて行くのとは異なる。
もっとリアルで、もっと切実で、もっと直感的なもの。
だから彼は「役を生きる。」と表現するんだろうな。
三池さんはまた、インタビューで「本能的に」「動物的に」と何度か言う。
つまりそれは直感であり、脳で処理された情報でなくむしろ体感に近い。
冷たい空気に晒されれば鳥肌が立つ。筋肉が硬直する。震える。
それらはお芝居のアクションの場面ではマイナスにはならないのか。
一歩踏み出す。冷え切った足裏に硬い小石の感触が響く。
刃を振るう。腕も手のひらも、体自体がかじかんで痛い。
しかし、本気で、死ぬ気で、挑む男の意識の中では、寒さも痛みも薄れて行く。
それは、遠くから微かに伝わってくる肉体の危険信号に過ぎず、目の前の、
まさに自分を斬り殺そうとするものたちの殺気が、暗雲のごとく立ち込める中では
意識の渦の外縁部で微かに瞬くのみ。
殺しに行ってください。
三池監督の言葉が、「自分と同じスタンスでいてくれる人。」と感じられたのは、
たぶんそういうこと、だったのではないかと想像する。
演じるものへの礼儀。
万次として現場に立つ。
それは自分が役を演じるという自分本位の視点からのスタンスでなく、
万次の生の中に自分がお邪魔させていただく感覚、かも。
だからできる限り「万次」の存在に敬意を払い、その感覚を知ろうとする。
彼の痛み。彼の悲しみ。彼の孤独。そして、彼の愛。
ずしっと重く斬り込みながら、ひらりと華麗に躱す身のこなし。
どっしりと揺るがない体幹からくる確かな切っ先の角度。
それを、いわゆる様式美にもせず、アクションの見栄えの良さにも留まらせない、
予定調和を拒否するような、凶暴なうつくしさへと昇華しているのは、
万次を生きるものとしての礼儀・姿勢のあり方かもしれない。
それを、面倒とか馬鹿らしいとか必要ないとかにせず、正面から受け止めた
監督とスタッフと共演者の方々の姿勢があってこそ、あの万次は存在できた。
ICWRでウジ虫が目のふちを這うシーンが話題になったけれど、あの時、
それをやってのける役者根性がすごいのではなく、そこまで深く・絶対的に
Shitaoとして存在できてることが凄いんだと・・・その感じを思い出しました。
「そう感じること」を要求されて、必要とあらばやる。
そこまでしないと万次という男と同化できないと判断したんだろうけれど、
理屈でなく直感、頭でなく身体で、感じ・動くことができる人だからこそ。
魅力ある・才能ある役者さんと仕事してきたけれども次元が違う。
その言葉の意味を、今また反芻しています。
コメント
木村はどういう男で、どういうふうに演じることを選んだのか。
それがすべての核心だと、今更に思い出させていただきました。
そのために選ぶことがなかった道、そのために巻き起こった様々な事象に目も心も捉われがちですが、原点は彼が選び取った生き方そのものです。
あんなに器用だ器用だセンスがいいと言われていた男が、役に取り組む時、素人臭く、馬鹿正直で健気で一途なアプローチを取ったこと。その覚悟。
なるべくしてこうなったのだと、今はおもいます。
外界は騒がしく、利害関係は複雑ですが、それが中心ではない、一つ一つ片付けていかなければならないとしても、それが全部じゃない。
自分の立つべき現場を見つけた木村を、先回りして心配するのはよそうと思いました。
彼の、仕事の方向性の岐路は20代にもありましたよね。
役者一本で生きるか、アイドルの道を歩むか。
個人的にはその時、もう一方の道を選んでくれていれば・・・との思いもあります。
が、その時はそれが最良の道だったのでしょうし、アイドルとしての彼の輝きに
救われた人もたくさんいたでしょう。
そして今、彼は大きく舵を切り、もう元の水路に戻ることはない。
アイドルとして誰よりも輝き、誰よりも『それらしく』振舞って居た木村。
役者にと決めた今、一途一心にその道を歩むと思います。
彼の目には遠く険しい、神々しい山々の頂が見えているのかもしれません。
未踏の頂を目指す登山家に、人は時に狂気を見ます。
バカなことをと揶揄する者もいるかもしれません。
でも彼らはそれを目指す。
どんなに困難で苦痛が待ち構えていようとも。
そうせずには居られない・・・そんな、普通でない衝動を抱えながら、
必ずやり遂げると、自分を信じられる人だけが成し遂げられる道かもしれませんね。