http://www.nact.jp/exhibition_special/2019/boltanski2019/

死。 魂。 亡霊。

死んだらどうなるのか?
死んでいるとはどういう状態なのか?
魂とは何か?
亡霊は存在するのか?

答えは出ない。
死んでしまった人は声を持たない。
私たち=生者は死がどんなものであるかは知っている。
しかし「死んでいる」とは一体どんな状態なのか?
生きている限り知る術はない。

ボルタンスキーは、映像・音・オブジェと光と闇によって
死者に「死」を語らせようとしている。

それは単調に繰り返される録音された男女の囁きだったり、
(一瞬だった? 誰を残して逝ったの?祈った?動揺した? などの断片的な言葉)

「ボタ山」と名付けられた夥しい数の喪服のジャケットを積み上げた山や、

錆びたブリキ缶に新聞の死亡告知欄の写真を貼り付けた174個の「骨壷」を
積み上げた納骨堂を作り上げたり、

意図的に不鮮明な子供の顔写真を使った「祭壇」を再現したり、する。

それらが想起させる「死」のイメージは何となく既視感がある。
だがそれぞれの写真やオブジェには何の注釈も説明もない。
どこの誰でどんな人生を送ったか。
または、どんな人の持ち物だったのか。
徹底的に個性を剥ぎ取られている。
その無名性ゆえ、作品たちはかつて生きていた誰かの残骸として
抽象的で冷たく乾いた姿で不気味に立ち上がってくる。
知らない他人の、知ってる誰かの、そしてたぶん私の、「死」。

ある瞬間、フリーズドライされた魂が薄っすらと灰色の気配となる。
それはピントのボケた古い写真の中の誰かのように見える。
人の形をした気配と化して、動くことも消えることもできない残像。
それが亡霊であり、巨大な「死」に呑み込まれた、誰かの生の痕跡。
その感覚は寒々しく、徹底的に叙情性を廃した表現。
悲しみも悼みの言葉も、怒りも恐怖もない宙づりの感覚。

一方、「死んでいること」の気配を捕まえて手の込んだやり方で具現化する試みは
不思議な高揚感を呼び起こす。
見えないものを見、聞こえないはずの声を聞く。
知ることの不可能なものを、気配として感じる。
恐ろしいのに見てみたい・聞いてみたい・「知りたい」。
その究極の欲望は知れるはずのない事を知ること。
つまり「死んでいる」とはどういうことかを理解すること、かもしれない。

テーマごとにいくつかの部屋に区切られて展示されている作品群の最後の部屋。

壁一面、天井から床まで貼り付けられた夥しい数の古着。
ありとあらゆる色。素材。サイズ。性別も年齢も様々な無数の「誰か」が
身に着けて生活したであろう無数の服たちは見ず知らずの「誰か」の
人生の断片的な記憶。

誰かがこの世に存在して、何十年かの人生を送り、ひっそりと死んで行く。
それぞれに物語があり幸せや不幸や悲劇や喜劇が繰り広げられたとしても、
ある日すっぽりと魂が抜けて肉体も何処かへ消え去る。
そして無数の亡霊が無数の街角に最後の記憶の言葉と共に佇んでいる。


コメント

nophoto
裕子
2019年7月13日21:16

HT様

お久振りでございます。
木村さんが大事に想っていた方の訃報を聞いたせいでしょうか、
お知らせいただいた展覧会にとても興味惹かれます。

たまたま読んでいる目下日本に住んでいるドイツ人チェリストの
エッセイの中に「日本人にとって幽霊(亡霊)は日常生活の一部です。ある知り合いは亡くなったおばあさんがいつもお盆に訪ねてくるからそのために家族はおばあさんの好物だった料理を用意し、テーブルの上に置いておきます。」
確かにお仏壇のある家庭は毎日お供えをしたり、お線香を炊いたりしますね。
かくいう私もその一人ですが(笑)。
そしてそのチェリストは「しかしドイツ人は全てを明確に説明したがります。
ドイツではどんな現象にも筋の通る理由があります」と。
ボルタンスキー氏はフランスの方ですよね。
死、魂、亡霊への取り組み方がなるほど、ととてもよく分かります。

見えないものを見、聞こえないはずの声を聞く。
知ることの不可能のものを、気配として感じる。

もしかしてこれは日本人の感覚に近いものではないかと思いました。
お盆に迎え火を焚き、亡くなった人の魂を自宅で迎え、また何日かして
送り火で墓所に送り返す。
丁度7月盆で回向している時ですので、とても惹きつけられました。
出来ればボランスキー展行ってみたいです!

HT
2019年7月13日23:09

裕子様、こんばんは。

たまたま重なってしまいましたが、タイミング的にはまさに、でした。
ドイツ人チェリストのお話、面白いですね。
確かに日本の仏壇は家の中に死者を住まわせている(と信じている)システムで、
キリスト教世界の人々から見ると「亡霊が生活の一部」と言えなくもない(笑)

それで思い出したのですが、10年くらい前かな。
カンヌでパルムドールを獲ったタイの映画「ブンミおじさんの森」がまさにそれで、
森に囲まれたタイの田舎では死者が生者に混じって食事したり会話するのが
日常の光景として描かれていました。
私には何か懐かしいような空気感の作品で、水木しげるの作品のように、
かつては日本でもあの世とこの世が近かったのだと想像します。
中国の古典怪談「聊斎志異」でも死者や幽霊が生者とやり取りする場面は
たくさん出てくるので、アジア文化に共通の感覚かもしれません。

ボルタンスキーの試みは似て非なるものと言いますか、アジアの死者たちが
血縁や土地など生前同様に、個人としての存在意義を保っているのに対し、
個性を剥ぎ取られた死者たちには顔がありませんでした。
それだけに生者と死者の世界の区別は明確で、恐らく作家にとって「個」とはすなわち
「生きている」ことを意味するのであろうかと。
「個」を剥ぎ取られた「亡霊たち」の醸し出す気配は、とても寒々しく、
水木しげるやブンミおじさんの叙情性はカケラもありませんでした。

偶然ドイツ人チェリストの話が出てきたので。
作品群の中に木の板に黒いフロックコートを着せて録音した声を自動再生する
オブジェがあるのですが(上の文章で述べている作品です)、
その服装ゆえかふと「ベルリン天使の詩」を思い出しました。
あの作品の天使はボルタンスキーのイメージする「幽霊」に近いかもしれない。
天使は人々の声を聞き、永遠の時を生きるけれど、その声は誰にも聞こえず
その姿は見えず、そして彼らの世界は灰色一色でしたから。

ボルタンスキー展、お時間がありましたら、ぜひ。

nophoto
裕子
2019年7月14日20:50

HT様

本当に素敵な芸術品を沢山見ていらっしゃいますね、
誰にも伝わらなかった言葉、ブンミおじさんの森、
今回のボランスキー展等々。
いつもこちらで啓蒙していただき感謝しています。

アジアと西洋との生死感の違いはやはり仏教とキリスト教との
違いなのかも知れません。
キリスト教にあれだけいろいろな行事があってもそれは
イエス・キリストやマリアや使徒に関するものが大半で
全ての死者のための祭日は年に一度だけです。
それに比べて仏教では両彼岸や盆はそれぞれの回忌は
身近な死者を偲ぶためのものですよね。
タイの映画「ブンミおじさんの森」も見たいです!

それから何と懐かしい「ベルリン天使の詩」!
大好きな映画です。これは日本語のタイトルが素敵でした。
天使が優し気に人々の声に耳を傾ける、でも天使の声は
誰にも聞こえず、その姿も見えず。。。
泣きそうになったことを覚えています。
ただ「時の翼にのって」という続編があったことは知りません
でした。

恐らく作者にとって「個」とはすなわち「生きていること」を
意味するのであろうかと。

ここから個、生きている、自己、他者、を深く論じる学問が
生まれているような気がします。
ボランスキー展は9月まで開催されているようなので時間をつくって
行って来たいと思います。

話は変わりますが、木村さんの伸びやかで、艶のある声にうたれています、
あんなに歌いづらい姿勢でいながらあれだけの声が出る。素晴らしいです。



nophoto
たた
2019年7月18日7:30

HT様
感性溢れる文章、楽しませていただきました。≪保存室(カナダ)≫、写真入りの展示目録でも、見開き一面で一番大きく、取り上げられていました。静かなはずなのに、雑多で、圧迫感のある作品でした。
裕子様のコメントも、興味深く拝読させていただきました。いろんな方の感性を刺激し、素敵な言葉を紡ぎださせる作品展と思います。新国立と森美術館は近いので、ボルタンスキー展に来られた時は、塩田千春展も是非足を延ばしてくださいね。どちらも今年の特筆すべき展覧会と思います。

HT
2019年7月18日23:42

裕子様。

啓蒙なんてとんでもないです。
興味の対象が偏っていますのでその辺りご容赦ください。

魂や幽霊、死後の世界。
「死」を考えることは「生」を意識することで、死が身近にあった時代と
今とでは生きることの実感が違って当然なのかもしれません。


久々の木村の歌声、ちょっと涙出そうでした。
彼の日常に音楽と歌があるんだなぁとリアルに感じてしまって。
再び歌ってほしいですよね。

HT
2019年7月18日23:48

たた様。

<保存室>圧巻でしたね。
ショップにアニエスbとコラボしたアートペーパー(新聞)が展示されていて、
巨大な倉庫のようなスペースで夥しい数の古着を使ったインスタレーションを
行ったようです。日本ではちょっと難しいでしょうね。

塩田千春展、10月までやってるんですね。
見てみたいです。

nophoto
裕子
2019年8月28日23:15

HT様

漸くクリスチャン・モルダンスキー展と塩田千春展、行って来ました。
照明をかなり落としての展示。最初から緊張感が漲っていて、「死」を
予告させる作品への厳粛感で鑑賞している人々の息遣いがとても静かで
これまで見た展覧会とまったく違った雰囲気でした。
作品ひとつひとつには解説文もなく、ひたすら観る人たちの死生観を問う、というある意味日本では珍しい試みだったと思いました。
私がもっとも心打たれたのは浜辺に打ち捨てられた?クジラの骨とラッパみたいな二つの金属の下にいる二人の人影と何もない海でした。この二人は何を語ってるんだろうか。死と生は結局は同じものなのかも知れない。死があるから生もまた記憶される。
それはその後足を延ばしてみた塩田千春さんの展示会をみて、そう思いました。
モルダンスキーもまた塩田さん同様「不在の中の存在」を語りたかったのではないかと強く思ったことでした。

本当に特筆すべき展覧会をお知らせいただき感謝しています!



HT
2019年8月31日21:05

裕子様、こんばんは。

>>>作品ひとつひとつには解説文もなく、ひたすら観る人たちの死生観を問う

そうでした。
美術展には珍しく作家や見せる側の意図が全く排除された見せ方。
作品の普遍性=力を信じないとなかなかできない手法ですよね。
例えば祭壇を思わせる一連の作品。
私はアウシュヴィッツを連想しました。実際、彼はユダヤ系ですし
父に聞かされた戦時中の話がインスピレーションの元だったようですが、
その情報が事前に入ると観る側にある種のバイアスがかかってしまう。
裕子様が書いてらっしゃるクジラの骨もそうで、あの装置が実はクジラと会話する
目的で作られたという情報が無かったから、様々な思考が生まれる訳で。
音を効果的に使うのも似たような意図かもしれないですね。
人は正体不明の音を聞くと自然に身構えて警戒するところがあるので…。

>>>死があるから生もまた記憶される

限りがあると意識すると生きている今の重みを感じる。
生の延長上に死があるのではなく二つは分かち難く結びついた裏表。


塩田千春展、まだなんです。
9月にみる予定。
またここに感想を書きますね。