京都ロケシリーズ@木村さ〜〜ん

木村さんは「番狂わせ」と言ってたけど、素晴らしくないですか?
俳優会館から太秦映画村へ、陶好堂さんで家紋入りのお皿。
そしてついに!
「教養番組なので」と内部撮影の許可が出たという三十三間堂、しかも時間外。
私、三十三間堂はむか〜し修学旅行で訪れた記憶しかなくて。
薄暗いお堂と物凄い数の仏像がズラリと並んでたな~…程度。
当時十代の私には特に響くものは無かったらしい。ダメじゃん、自分。
時は流れて2021年の今、木村さんの目線で見る三十三間堂は驚きに満ちて、
NHKのドキュメンタリークルーですら思いつかないアングルだろうな、これは。


まずは「無言の説得力」。
1000体の菩薩像を前に発した木村さんの一言。
皮膚感覚に満ちた表現。
彼がそう感じたのも道理で、住職さんの説明によるとここは
「会いたくても逢えない人の面影を宿す菩薩様を探す」場所。
1000体の菩薩像は一つとして同じ顔がなく、参拝者は圧倒的な数の仏様と向き合い、記憶の中に朧に浮かんだあの人の面影を宿す顔を探し求める…
何百年もの間、人々の記憶と祈りと満たされぬ想いとがしんしんと降り積もり
見えないチリのように漂っている。
「無言」の「説得力」は圧倒的な仏の数のみならず、無数の人の想いが漂う
気配そのものを感じ取ったのではないでしょうか。

何か・誰かと初めて対峙した時の木村さんは目の付け所が鋭くて、一気に本質へと
近付く感じがします。
仏像の目の造形に気づいて住職さんから象眼の手法を聞き出すところから、昔は仏像を下から蝋燭で照らしていたこと、三十三間堂全体が国宝認定されるまで45年かかったというお話まで、自然に話が弾んで深いところまで掘り下げられていく。
木村さんが特に意識しなくてもいつの間にかそうなってしまう。
特に印象的だったのは、昔、天井に銅鏡が取り付けられていたお話。
外光を反射し仏像を照らしていたという話に、「いつぐらいの時間ですか?」と
かなり唐突とも思える質問。
すぐに意図を汲んで、三十三間堂が東向きなこと、朝日が昇る時、銅鏡の反射で
金色の仏像が一斉に輝いただろう様子を説明する住職さん。
銅鏡の光が仏像を輝かせるのは何時頃だったのか、つい気になるのも道理で、
彼はまさに今、映画の撮影中。
それもスタジオでなくロケ。
お天気とお日様の輝く時間に支配される日々と思えば自然なことば。
東から昇る太陽の最初の一閃に燦然と輝く1000体の菩薩たち。
ドラマティックで映像的で、まさに極楽浄土と思えるその瞬間が、
木村さんにははっきりと、映像として見えていたのかもしれません。

見ること。

それは物事の本質と向き合うこと。
二刀流の像と向き合った時の言葉が「目が合わない。」
とても象徴的で彼の観察眼の鋭さを感じる言葉。
仏像と向き合って、何となく違和感があるなと思っても、「目が合わない」からだと
見抜く人はそういない気がします。
さらに目が合わないを、「一点を見つめないことで全てを見ている。」と表現し、
「君はあなたはいかほどの者か?と問いかけられている。」感受性の豊かさ。
今まさに剣を振るう瞬間を窺うこの神様は、もちろん剣の達人なのでしょう。
その本質を、敢えて「目を合わせない」ことで表現した仏師。
その意図を、数百年後、直観的に読み取る1人の役者。
時を超え、観る者と仏師とが対峙した気がして、ゾクッとしました。
と同時に、彼がなぜそれを読み取ることができたのか?とも。
木村さんが演じてきた人々…信長、安兵衛、新之丞、武蔵、万次。
彼らを「生きる」時、心中へ深く分け入り、剣の極意に手探りで近づく。
どれだけの情熱とエネルギーを傾け、葛藤してきたのか。
役の目で見、心で考え、身体で感じる。
それが木村拓哉の芝居の本質なのかも知れない。

見ることはまた、会うことでもあり。

一番会いたかった阿修羅像。
興福寺の阿修羅像のような美少年ではなく忿怒の表情を浮かべた修羅の神。
圧倒的な力を持つ帝釈天に闘いを挑み、負け続け、それでも挑む神。
住職さんの言葉通り「戦いの神」であり、終わりなき修羅の道を歩む者。
阿修羅像とまっすぐ対峙する木村さんの目は像と対話しているようでした。
何を問うたのか。
なぜ挑み続けるのか?なぜ終わりなき修羅の道を歩むのか?
その心のうちを探り当てようとしたのかも知れません。
阿修羅との対峙を願ったのは木村拓哉なのか、今生きている役としてなのか。
阿修羅は彼に、何を語ったのか。

撮影中の役と木村拓哉が深いところで繋がっていると思えてなりません。
もともと役に入ると雰囲気の変わる人ですが、今回は特別。
京都にしかない磁場に取り込まれ、行くべき場所・見るべきものと自然に出会う。
UOMOの撮影で立ち寄ったお寺の方がブログで「龍に呼ばれた」と仰ってたのも
京都ならではだなと思いましたし。織田信長の名前が出てきましたが、
前回の訪問はプライベートだったらしいので、やはり呼ばれたのかも知れません。
龍に呼ばれるのがこれほど似合う人もいないでしょう。

まだ正式に発表されてない作品が公になった時、私はどんな感情を抱くだろう。
その日が、楽しみでなりません。

コメント

たぬきん
2021年12月8日9:16

いつも頭の中でほわほわ漂っている感情を的確に…いや、それ以上に素晴らしい文章にして読ませて頂きありがとうございます・゚:*(´ω`*人)

独身時代に仏像にハマり、三十三間堂にも拝観しましたが、その時は自身が若かった事もあり、無邪気に自分に似た観音様を探してました。歳を重ねて何人も大事な人を見送った今、改めて参拝してその人の面影のある観音様を探してみようかなぁと思いました。まさか木村さ〜〜んを見てこんな真摯な想いになるとはw

HTさんの文章を読むと、あの静謐な空間を肌身に感じ取れる気がしました。私たちには絶対に見る事の出来ない時間帯での空間。ゾクゾクしました。仏像は今も好きで、行こうと思えば日帰りで拝観出来ると言うのに、そう言えば長年三十三間堂には訪れていないなぁ…。今回の京都訪問編を見て、また行きたくなったので絶対に近い内に三十三間堂を訪れようと思いました(*´ω`*)

木村さんと京都が意外な程にしっくり来て、見ていて本当に楽しかった!もっともっと見ていたかったなぁ…。どこかで特番作ってくれないかしら(*´Д`*)

HT
2021年12月8日13:56

たぬきんコメントありがとう!!嬉しいよ!!!

書きながら確かたぬきんは仏像好きだったな〜。詳しいんだろうな〜とぼんやりと思ってました。お寺の良さって年齢を重ねるほど分かってくる気がするの。
観音様のお顔に亡き人の面影を探すとか…神や仏の姿に知らず知らずに自分自身を投影しているんだろうし、長く生きるほど見えてくるものに重みがますような。
木村さ〜〜んは教養番組です。って何をふざけた事言ってんだよー笑 と思ってたけど立派に教養番組だったわ。驚き。

三十三間堂には数十年前に行ったきりなので私の文章は木村さんを観察して想像を働かせた結果なので、実際はどんな空気感なのか分からないけど、たぬきんが
そう感じてくれたのならとても嬉しいです。
今度関西を訪れた際は三十三間堂の空気を確かめに行きたいです。

木村さんと京都しっくり来すぎてヤバイ。
前世は本当に京都在住の武士だったのかもしれないwww
映画が公開になった暁にはきっとどっかの局が特番組むと信じてます(言霊)
たぶんたっぷりあるだろうメイキングが今から楽しみ♪

nophoto
裕子
2021年12月8日20:56

HT様

実はまだこの回を見る時間がなくて未見でした。
それでHT様と木村さんのすさまじいまでの感覚でごらんになった、
三十三間堂の菩薩像の映像を改めて拝見してお堂の中のしんとした空気が
そのまま感じられるという稀有な経験をしました、パソコンを通り抜けて自分もまたあのお堂の中にいるような。
これもHT様の文章の力だと思いました!

西洋の教会には時に73メートルも高いところに彩色豊かな天使に守られた
聖者像があり、ひたすら見上げて感嘆するのですが、三十三間堂は横に120メートルもあり、そこにずらりと1000体の菩薩像がいらっしゃる。
天に崇める神様がいらっしゃる西洋と地に慈愛を施す仏様がおられる東洋。

木村さんが最後に「おちゃらけていると一体の仏像が、キッとこちらを見るように思う」
思わずそのシーンが浮かんでしまいました。

木村さんにはParisが似合うと思っていたのに、こうしてみると本当に京都がこれほど似合う表現者もいないと思います。
映画の完成が待たれます。

HT
2021年12月8日22:46

裕子さんこんばんは。

いつも温かいコメントありがとうございます。
私の覚えている三十三間堂の空気感は【薄暗い】だけなので、裕子さんが感じた空気感は木村さんの臨場感溢れる映像のおかげだと思います。
彼には何か、観る者の感覚を自分のそれにシンクロさせてしまう才能があるような。
何か上手いこと言おうともせず、ただ見たものに感じるまま反射させるだけで、
こちらに伝わってくる…あの感じ、何でしょうね。

>「一体の仏像が、キッとこちらを見るように思う」

こういうところだろうなぁ。
彼の頭の中にはその映像がハッキリとあって、平易な言葉で表現するから、こっちも
臨場感を共有できるんでしょう。

パリも京都も歴史ある建物が街中に点在し、祈りの場と人の生活の歴史を肌で感じられる場所ですよね。
言葉にならない人の想いとゆったりと流れる時間が彼を余計に輝かすのかも。