すずらんの香り。
最寄りのバス停は昭和40年代に出来た団地の脇にある。
今日は曇り。夕方になって風が強まったが
その時はまだそよ風程度だった。
ふっと鼻先を掠めた匂い。
真っ白くて清潔でぱりっとして、それはまさにお日様で乾かした真っ白い麻のシーツの匂いだった。
何だろう?
香りの元はすぐにわかった。
昭和中期に建ったその団地は建物こそ古いが、一棟一棟の距離が贅沢なほど広く、
それぞれが芝生を敷き詰めた中庭になっている。
バス停のあるすぐ向こう側の中庭の手前には3m×2mほどの楕円形に鈴蘭が
びっしりと植わっているのだ。
今、まさに花の盛り。
緑の葉と茎の間から、可憐な純白の花が見える。
乙女の面影を宿すような花だが毒性が強く、そのせいか最近はあまり見かけない。
それにしても。
何故反射的に<真っ白な麻のシーツが風になびくさま>を連想したんだろう?
もちろん、香りそのものの透明感や凛とした清々しさのせいもあるだろうけれど。
…ああ、そうそう。子供の頃何度も嗅いだ洗濯洗剤の香りだ。
たしかその洗剤の箱に<すずらんの香り>と書いてあったのを思い出した。
もちろん安価な合成香料だろうけれど、数十年前の記憶を瞬間的に呼び覚ますほど、それは花の香りを巧みに再現していたのだ。

すずらんの香り、というとすぐに思い浮かぶのがディオールの香水<ディオリッシモ>
エドモンド・ルドニツカが作り出した超有名な香りで、誕生から何十年も経過しているけれど、今でもディオールのカウンターへいけば大抵テスターが用意されている。
控えめでもの静かで、美しくエレガントな女性に似合いそうな透明な香りは、
名前は知らなくても嗅げば「ああ、知ってる!」という人が多いはず。
少しだけ瓜のようなウォータリーなニュアンスもある瑞々しくもクラシックな香水。
(キンチョールの匂いみたい、と言う人もいるけれど)

過去の記憶に結びつく洗剤の匂いもディオリッシモも、それぞれ単独で香って
「すずらんの匂いですよ」と言われれば「なるほど。」と納得する。
ところが二つ並べてみると、洗剤とディオリッシモの匂いは全く違う。
そこに生花の香りと人の手で組み立てた香りとの、決定的な違いがある。
人の手による香りは、複雑で刻々と変化する生花の、ある側面を強調したもの。
例えば、すずらんの香りの洗剤はその清々しさと透明な白の、爽快な清潔感を。
ディオリッシモの香りは花のもつ青みのある瑞々しさと仄かな甘さ、
奥ゆかしいロマンティシズムの再現を目指したのだろう。

実際のすずらんの花はあくまでもイメージソースであって、できた香りは
生花そのものではない。
つまり、調香師のイマジネーションが組み立てた想像上の<すずらんの花>の香りで
それを嗅ぐ私は、想像上のすずらんから生花を思い浮かべ、あるいはすずらんの生花に想像上の花が紡ぎ出すイメージを重ねる。

嗅覚と香りとの、何層にも重なり合う複雑でイマジネーション豊かな関係。
視覚のように、はっきり具体的に知覚できる形がないからこその、なせる技。

…というような理屈は抜きにしても、すずらんの生花は本当に魅力的であります。


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