クリスチャン・ボルタンスキー展
2019年7月12日 趣味 コメント (8)http://www.nact.jp/exhibition_special/2019/boltanski2019/
死。 魂。 亡霊。
死んだらどうなるのか?
死んでいるとはどういう状態なのか?
魂とは何か?
亡霊は存在するのか?
答えは出ない。
死んでしまった人は声を持たない。
私たち=生者は死がどんなものであるかは知っている。
しかし「死んでいる」とは一体どんな状態なのか?
生きている限り知る術はない。
ボルタンスキーは、映像・音・オブジェと光と闇によって
死者に「死」を語らせようとしている。
それは単調に繰り返される録音された男女の囁きだったり、
(一瞬だった? 誰を残して逝ったの?祈った?動揺した? などの断片的な言葉)
「ボタ山」と名付けられた夥しい数の喪服のジャケットを積み上げた山や、
錆びたブリキ缶に新聞の死亡告知欄の写真を貼り付けた174個の「骨壷」を
積み上げた納骨堂を作り上げたり、
意図的に不鮮明な子供の顔写真を使った「祭壇」を再現したり、する。
それらが想起させる「死」のイメージは何となく既視感がある。
だがそれぞれの写真やオブジェには何の注釈も説明もない。
どこの誰でどんな人生を送ったか。
または、どんな人の持ち物だったのか。
徹底的に個性を剥ぎ取られている。
その無名性ゆえ、作品たちはかつて生きていた誰かの残骸として
抽象的で冷たく乾いた姿で不気味に立ち上がってくる。
知らない他人の、知ってる誰かの、そしてたぶん私の、「死」。
ある瞬間、フリーズドライされた魂が薄っすらと灰色の気配となる。
それはピントのボケた古い写真の中の誰かのように見える。
人の形をした気配と化して、動くことも消えることもできない残像。
それが亡霊であり、巨大な「死」に呑み込まれた、誰かの生の痕跡。
その感覚は寒々しく、徹底的に叙情性を廃した表現。
悲しみも悼みの言葉も、怒りも恐怖もない宙づりの感覚。
一方、「死んでいること」の気配を捕まえて手の込んだやり方で具現化する試みは
不思議な高揚感を呼び起こす。
見えないものを見、聞こえないはずの声を聞く。
知ることの不可能なものを、気配として感じる。
恐ろしいのに見てみたい・聞いてみたい・「知りたい」。
その究極の欲望は知れるはずのない事を知ること。
つまり「死んでいる」とはどういうことかを理解すること、かもしれない。
テーマごとにいくつかの部屋に区切られて展示されている作品群の最後の部屋。
壁一面、天井から床まで貼り付けられた夥しい数の古着。
ありとあらゆる色。素材。サイズ。性別も年齢も様々な無数の「誰か」が
身に着けて生活したであろう無数の服たちは見ず知らずの「誰か」の
人生の断片的な記憶。
誰かがこの世に存在して、何十年かの人生を送り、ひっそりと死んで行く。
それぞれに物語があり幸せや不幸や悲劇や喜劇が繰り広げられたとしても、
ある日すっぽりと魂が抜けて肉体も何処かへ消え去る。
そして無数の亡霊が無数の街角に最後の記憶の言葉と共に佇んでいる。
死。 魂。 亡霊。
死んだらどうなるのか?
死んでいるとはどういう状態なのか?
魂とは何か?
亡霊は存在するのか?
答えは出ない。
死んでしまった人は声を持たない。
私たち=生者は死がどんなものであるかは知っている。
しかし「死んでいる」とは一体どんな状態なのか?
生きている限り知る術はない。
ボルタンスキーは、映像・音・オブジェと光と闇によって
死者に「死」を語らせようとしている。
それは単調に繰り返される録音された男女の囁きだったり、
(一瞬だった? 誰を残して逝ったの?祈った?動揺した? などの断片的な言葉)
「ボタ山」と名付けられた夥しい数の喪服のジャケットを積み上げた山や、
錆びたブリキ缶に新聞の死亡告知欄の写真を貼り付けた174個の「骨壷」を
積み上げた納骨堂を作り上げたり、
意図的に不鮮明な子供の顔写真を使った「祭壇」を再現したり、する。
それらが想起させる「死」のイメージは何となく既視感がある。
だがそれぞれの写真やオブジェには何の注釈も説明もない。
どこの誰でどんな人生を送ったか。
または、どんな人の持ち物だったのか。
徹底的に個性を剥ぎ取られている。
その無名性ゆえ、作品たちはかつて生きていた誰かの残骸として
抽象的で冷たく乾いた姿で不気味に立ち上がってくる。
知らない他人の、知ってる誰かの、そしてたぶん私の、「死」。
ある瞬間、フリーズドライされた魂が薄っすらと灰色の気配となる。
それはピントのボケた古い写真の中の誰かのように見える。
人の形をした気配と化して、動くことも消えることもできない残像。
それが亡霊であり、巨大な「死」に呑み込まれた、誰かの生の痕跡。
その感覚は寒々しく、徹底的に叙情性を廃した表現。
悲しみも悼みの言葉も、怒りも恐怖もない宙づりの感覚。
一方、「死んでいること」の気配を捕まえて手の込んだやり方で具現化する試みは
不思議な高揚感を呼び起こす。
見えないものを見、聞こえないはずの声を聞く。
知ることの不可能なものを、気配として感じる。
恐ろしいのに見てみたい・聞いてみたい・「知りたい」。
その究極の欲望は知れるはずのない事を知ること。
つまり「死んでいる」とはどういうことかを理解すること、かもしれない。
テーマごとにいくつかの部屋に区切られて展示されている作品群の最後の部屋。
壁一面、天井から床まで貼り付けられた夥しい数の古着。
ありとあらゆる色。素材。サイズ。性別も年齢も様々な無数の「誰か」が
身に着けて生活したであろう無数の服たちは見ず知らずの「誰か」の
人生の断片的な記憶。
誰かがこの世に存在して、何十年かの人生を送り、ひっそりと死んで行く。
それぞれに物語があり幸せや不幸や悲劇や喜劇が繰り広げられたとしても、
ある日すっぽりと魂が抜けて肉体も何処かへ消え去る。
そして無数の亡霊が無数の街角に最後の記憶の言葉と共に佇んでいる。
http://www.geki-cine.jp/m-macbeth/
これ!!!
見たんですよ。先週の木曜日。
立川シネマシティの爆音上映。
いや〜最高でした。
宮藤官九郎のナンセンスなセンスあふれる設定、セリフを新感線の演出で。
荒廃した未来と’80年代の東京、原宿。過去と未来を行き来する世界観で
繰り広げられるのはシェークスピアの古典劇。
あれ?この話ロックじゃない?
勇者とロックスター、マネージャーと悪妻。
その野望と栄光、欲望と狂気。
ヘヴィメタルをキー・ワードに思いっきり面白く見せるのに宮藤官九郎のセンスは
ほんっとこれ以外考えられないチョイスだったと思います。
そしてとにかく松たか子の凄さよ・・・。参りました。
映画やTVで「上手さ」はわかってるつもりでしたけれども。
凄いですよこの人。
あの瞬発力。
洪水のようなセリフをドラムの超高速連打のごとくリズミカルに正確に打ち出す。
ヘッドバンギングする、倒れこむ、踊る、怒る、笑う、泣く、そして狂っていく。
あの身体の動きの、圧倒的な説得力がうむ存在感。
それでいて少女のように愛らしく、娼婦のように艶かしい。
コルセットで締め上げた大胆な衣装の、ウェストの細さ。
そこから繰り出される信じがたいほどの声。
歌声が素晴らしかった。
ふとアップになった時、その両腕の内側に痣が見えたんですよね。
そりゃそうだろうなぁ。あの激しい動き。
でも彼女、お芝居してる間は痛みなんて感じてないと思う。
間違いなく。
彼女の舞台を見たい。
もう一人、印象に残ったのが森山未來でした。
軽やかで正確な体の動き。
華奢で少年のようよビジュアルから放たれる圧倒的な華。
釘付けになりました。
「みをつくし料理帖」でうわぁ。繊細なお芝居する役者さんだなぁ。いいなぁと
そう思って、興味津々だったのです。
彼もこれから見続けたい役者さん。
役者って肉体なんですよね。
感性・知性、それらから出てくる表現をダイレクトに三次元へ解き放つ肉体。
肉体感覚に優れてるかどうか、は、生まれつきのものも大きいでしょうけれども。
舞台は、残酷なほどそれがあからさまになるんだとまたもや実感いたしました。
これ!!!
見たんですよ。先週の木曜日。
立川シネマシティの爆音上映。
いや〜最高でした。
宮藤官九郎のナンセンスなセンスあふれる設定、セリフを新感線の演出で。
荒廃した未来と’80年代の東京、原宿。過去と未来を行き来する世界観で
繰り広げられるのはシェークスピアの古典劇。
あれ?この話ロックじゃない?
勇者とロックスター、マネージャーと悪妻。
その野望と栄光、欲望と狂気。
ヘヴィメタルをキー・ワードに思いっきり面白く見せるのに宮藤官九郎のセンスは
ほんっとこれ以外考えられないチョイスだったと思います。
そしてとにかく松たか子の凄さよ・・・。参りました。
映画やTVで「上手さ」はわかってるつもりでしたけれども。
凄いですよこの人。
あの瞬発力。
洪水のようなセリフをドラムの超高速連打のごとくリズミカルに正確に打ち出す。
ヘッドバンギングする、倒れこむ、踊る、怒る、笑う、泣く、そして狂っていく。
あの身体の動きの、圧倒的な説得力がうむ存在感。
それでいて少女のように愛らしく、娼婦のように艶かしい。
コルセットで締め上げた大胆な衣装の、ウェストの細さ。
そこから繰り出される信じがたいほどの声。
歌声が素晴らしかった。
ふとアップになった時、その両腕の内側に痣が見えたんですよね。
そりゃそうだろうなぁ。あの激しい動き。
でも彼女、お芝居してる間は痛みなんて感じてないと思う。
間違いなく。
彼女の舞台を見たい。
もう一人、印象に残ったのが森山未來でした。
軽やかで正確な体の動き。
華奢で少年のようよビジュアルから放たれる圧倒的な華。
釘付けになりました。
「みをつくし料理帖」でうわぁ。繊細なお芝居する役者さんだなぁ。いいなぁと
そう思って、興味津々だったのです。
彼もこれから見続けたい役者さん。
役者って肉体なんですよね。
感性・知性、それらから出てくる表現をダイレクトに三次元へ解き放つ肉体。
肉体感覚に優れてるかどうか、は、生まれつきのものも大きいでしょうけれども。
舞台は、残酷なほどそれがあからさまになるんだとまたもや実感いたしました。
クエイ兄弟 The Quay Brothersーファントム・ミュージアムー
2017年7月17日 趣味http://www.shoto-museum.jp/exhibitions/173quay/
クエイ兄弟の映像を初めて見たのはたぶん80年代の終わりか90年代の初め頃。
渋谷のユーロスペースだったと思う。
怪しげな男がモノクロームの画面に映し出される。
部屋には奇妙な仕掛けがついた箱が置かれている。
男が覗き込み、唾を一滴・・・それを合図に、箱の中で人形が息を吹き返す。
小さくグロテクスで古びて埃っぽい、甘美なる廃墟の世界が、
邪悪で無垢で物悲しい、子供のような残酷さを孕んで動き出す。
言葉で説明するよりも映像を見てもらえば一発で伝わるので是非。
「STREET OF CROCODILES 」
https://youtu.be/UIGEjEu0bn4
美しいものが好きです。
けれど綺麗なだけのものには心惹かれない。
古びたもの、とくにかつてそこに人がいた痕跡が気配のように漂う廃墟。
誰かの手が触れたであろう古着やアクセサリー、陶器の人形、仮面。
それらがひっそりと埃をかぶっている、鍵のかかったアンティークショップ。
どことなく後ろめたさを感じながら曇ったガラス越しに、あるいはドアの隙間から
こっそりと覗き込む。
モノたちがもしかしたら勝手に動き出したりしないだろうか?と半ば期待しながら。
子供の頃、町外れに廃屋があった。
廃業した医院の閉鎖された塀の隙間から覗き込むと、洋館風の建物の割れた窓から
薬瓶らしきものが並んで、無造作に転がったりしているのが見えた。
「見ちゃいけない!!」
誰かの影を見た気がして、後も見ないで逃げ帰った。
クエイ兄弟の映像作品を見るのはそんな気分にとてもよく似ている。
朝起きたらほとんど忘れ去っている夢の世界。
昏く後ろめたいのに甘美な、幻の感触だけが舌先に残っている感じ。
もう一度、昨夜の悪夢の中に入っていく感じ。
忘れた物語を、わたしの頭の中から盗み出し映写機で映し出すような。
クエイ兄弟によるコムデギャルソンの香水CM
「wonder wood」
https://youtu.be/oxtjoH--GbA
今回の展覧会で初めて見たクエイ兄弟のドローイング。
ほとんどの作品が鉛筆だけで描かれた精密なデッサンの、幻覚のようなもの。
闇は漆黒ではなくモヤモヤした黒煙が濃く立ち込めたように見える。
闇の向こうにぼんやりと工場のようなダムのような構造物があったりする。
または絶えず変形し不安定な部屋の中だったりする。
人物は大抵顔がはっきりせず、気配の中に不安そうに取り残されている。
何かが起こりそうな不穏な空気。
恐ろしいものが待っているけれども「それ」が姿を表すことはたぶん永遠にない。
ホラー映画で一番怖いのは殺人者や怪物が姿を現す瞬間ではない。
気配があるのに、モヤモヤした闇のせいで「それ」が見えないシークエンスだ。
一番怖い部分・・・不穏な空気が張り詰めて遠くから何かがやってくる気配。
永久に見えないそれを見つめ続ける時間の中に宙づりになるほど怖いことはない。
この感じはデヴィッド・リンチやフランシス・ベーコンを思い出させる。
しかしリンチのどことなく子供じみた陽気な狂気とは違うし、
フランシス・ベーコンのように挑発的・攻撃的な感じでもない。
世界は昏く閉じられているが同時に外に向かって開かれている感じがする。
見る人を、拒否したり攻撃したりの意図はない。
それはたぶん、二人が一卵性双生児で、ドローイングも映像も全てが
二人の共同制作だからと思う。
一卵性双生児はふしぎ。
一つの卵子から生まれたふたつの人格。
一人と一人で、二人でひとつ。
クエイ兄弟の作品は初期の鉛筆だけで描いたモノクロのドローイングから
二次元の人形アニメーション(一分の映像に千カットが必要出そう)へ、
そして今は三次元の舞台装置へと広がっているそうだ。
もし、どちらか一人だけだったとしたら?
これほど濃密で緻密でありながら、外へ外へと広がることはできなかったのでは?
と、ふと思った。
クエイ兄弟の映像を初めて見たのはたぶん80年代の終わりか90年代の初め頃。
渋谷のユーロスペースだったと思う。
怪しげな男がモノクロームの画面に映し出される。
部屋には奇妙な仕掛けがついた箱が置かれている。
男が覗き込み、唾を一滴・・・それを合図に、箱の中で人形が息を吹き返す。
小さくグロテクスで古びて埃っぽい、甘美なる廃墟の世界が、
邪悪で無垢で物悲しい、子供のような残酷さを孕んで動き出す。
言葉で説明するよりも映像を見てもらえば一発で伝わるので是非。
「STREET OF CROCODILES 」
https://youtu.be/UIGEjEu0bn4
美しいものが好きです。
けれど綺麗なだけのものには心惹かれない。
古びたもの、とくにかつてそこに人がいた痕跡が気配のように漂う廃墟。
誰かの手が触れたであろう古着やアクセサリー、陶器の人形、仮面。
それらがひっそりと埃をかぶっている、鍵のかかったアンティークショップ。
どことなく後ろめたさを感じながら曇ったガラス越しに、あるいはドアの隙間から
こっそりと覗き込む。
モノたちがもしかしたら勝手に動き出したりしないだろうか?と半ば期待しながら。
子供の頃、町外れに廃屋があった。
廃業した医院の閉鎖された塀の隙間から覗き込むと、洋館風の建物の割れた窓から
薬瓶らしきものが並んで、無造作に転がったりしているのが見えた。
「見ちゃいけない!!」
誰かの影を見た気がして、後も見ないで逃げ帰った。
クエイ兄弟の映像作品を見るのはそんな気分にとてもよく似ている。
朝起きたらほとんど忘れ去っている夢の世界。
昏く後ろめたいのに甘美な、幻の感触だけが舌先に残っている感じ。
もう一度、昨夜の悪夢の中に入っていく感じ。
忘れた物語を、わたしの頭の中から盗み出し映写機で映し出すような。
クエイ兄弟によるコムデギャルソンの香水CM
「wonder wood」
https://youtu.be/oxtjoH--GbA
今回の展覧会で初めて見たクエイ兄弟のドローイング。
ほとんどの作品が鉛筆だけで描かれた精密なデッサンの、幻覚のようなもの。
闇は漆黒ではなくモヤモヤした黒煙が濃く立ち込めたように見える。
闇の向こうにぼんやりと工場のようなダムのような構造物があったりする。
または絶えず変形し不安定な部屋の中だったりする。
人物は大抵顔がはっきりせず、気配の中に不安そうに取り残されている。
何かが起こりそうな不穏な空気。
恐ろしいものが待っているけれども「それ」が姿を表すことはたぶん永遠にない。
ホラー映画で一番怖いのは殺人者や怪物が姿を現す瞬間ではない。
気配があるのに、モヤモヤした闇のせいで「それ」が見えないシークエンスだ。
一番怖い部分・・・不穏な空気が張り詰めて遠くから何かがやってくる気配。
永久に見えないそれを見つめ続ける時間の中に宙づりになるほど怖いことはない。
この感じはデヴィッド・リンチやフランシス・ベーコンを思い出させる。
しかしリンチのどことなく子供じみた陽気な狂気とは違うし、
フランシス・ベーコンのように挑発的・攻撃的な感じでもない。
世界は昏く閉じられているが同時に外に向かって開かれている感じがする。
見る人を、拒否したり攻撃したりの意図はない。
それはたぶん、二人が一卵性双生児で、ドローイングも映像も全てが
二人の共同制作だからと思う。
一卵性双生児はふしぎ。
一つの卵子から生まれたふたつの人格。
一人と一人で、二人でひとつ。
クエイ兄弟の作品は初期の鉛筆だけで描いたモノクロのドローイングから
二次元の人形アニメーション(一分の映像に千カットが必要出そう)へ、
そして今は三次元の舞台装置へと広がっているそうだ。
もし、どちらか一人だけだったとしたら?
これほど濃密で緻密でありながら、外へ外へと広がることはできなかったのでは?
と、ふと思った。
ステージアラウンド東京 髑髏城の七人〜花
2017年6月1日 趣味 コメント (4)http://www.tbs.co.jp/stagearound/hanadokuro/
行ってまいりました。
今話題の豊洲。ゆりかもめ駅を降りるとそこはひとけのない豊洲市場と茶色い土が
むき出しの広大な空き地。
植樹したばかりと思しき緑の一角にまるで巨大なコンテナのような淡いグレーの箱。
なかなかシュールな光景であります。
中はそれほど広くありません。客席はちょうど傾斜をつけた円盤に乗っかった形で
これが場面によってゆっくりと回転するのですが、ちょっと船が揺れるみたいな
ふわっとした感じがあるので、気になる方もいらっしゃるかも。
舞台は曲面でできたスクリーンのような壁で仕切られ、開閉式になってます。
まるで巨大なエレベーターのドアが開くと、そこに舞台があるイメージ。
この巨大な壁はスクリーンの機能も果たしており、モノクロの映像が投影され、
動く座席とうまく連動して面白い演出効果を発揮しておりました。
例えば人物が全速力で野原を駆け抜けるシーンではすすき野が映し出され、
その手前を役者が走る。
髑髏城内に侵入するシーンでは城の石垣が映し出され、座席がくるっと動くので
自分も中に入ったような錯覚が得られるのです。
ラスト近く、捨之介の見せ場のシーンでは、座席の動きと壁の開くタイミングが
ぴたっと噛み合い、体ごとその場面に吸い込まれて行く感じで、思わすおおっ!!と
興奮いたしました。
また場面によっては天井から霧雨を降らせたり、小川が流れたりの演出も
舞台が連続した円形であること、客席が回るという仕組みならではかもしれません。
ただ、一つ改善していただきたいところが。
それは、音響です。
私の席は前方右手端だったのですが、スピーカーの音が反響しディレイがかかった
ような状態でセリフが聞き取りにくい部分が多々ありました。
インターバルでヘヴィメタの音楽がかかってる時は特に感じなかったので、
役者さんの声を拾うマイクとの相性に問題があるのかもしれません。
セリフが聞こえ辛いのは割と致命的な欠陥ではないかと思いました。
さて。
舞台装置が日本初でかなり斬新な作りだからかもですが、
お芝居の衣装だったり演出は想像したよりずっとオーソドックスでしたね。
以前、染五郎さんが捨之介と天魔王の二役を演じた髑髏城を映画で見ました。
女郎衆がいきなり迷彩服でライフルをぶっ放したり、凝りまくったセリフの応酬で
思い切り笑わせたり、役者の力量全開でこれでもか!!と攻めてる演出でした。
天魔王の手下も仮面ライダーの怪人みたいに突飛な扮装に武器を装備して、
ある意味パンキッシュな、時代性完全無視のなんでもあり、みたいな。
もう一つ、髑髏城内での一つの見せ場、捨之介が斬りかかる敵をバッサバッサと
切り倒しながら、刃こぼれした刀を贋鉄斎に投げ渡し戦いながら研ぎ直した刀を
受け取ってまた切り倒すという、軽業のような刀の投げ渡しシーンが大好きで。
あれがなかったのはちょっと残念でした。
なので、正直、物足りない感じがあるのですが、何年もなんども上演して
少しずつ形が変わっていくのも、この髑髏城の醍醐味なのかもしれません。
「花」の配役は
捨之介を小栗旬さん、無界屋蘭兵衛を山本耕史さん、天魔王を成河さん。
捨之介の小栗さんは生で見るとすらりと背が高く顔が小さくモデル体型ですね。
殺陣の動きもキレがあって若々しい捨之介だなぁという印象でした。
ただその若々しさ故か。
捨之介の色気や暗さが感じられなかったのが物足りず。
遊び人で尻軽で口を開けば女を口説きどこまで本気かわからない冗談ばかり。
だけれどもその軽さが実は消すに消せない過去の薄暗さを隠すため。
どこまでもお馬鹿で軽薄なのに、ある種得体の知れない謎めいた色気が、セリフでも
女性(特に沙霧)との絡みでもあまり感じられなかったのは、小栗旬ならではの
捨之介像を描くための演出だったかも知れません。
ただ、染五郎さんの捨之介では、過去が明らかになり、奇妙な名前の由来を知り、
前半の軽さと後半の業を背負った陰惨さが一人の男の上でせめぎ合う感じが
役者さんのお芝居からくっきり浮かび上がってくるのがなんとも魅力的だったし、
天魔王という一見正反対に見える悪の権化に、ふっと引き寄せられてしまうのでは
というスリリングさをも生み出していましたし、その流れがあるからこそ、
仲間の為ならこの命、捨ましょうとばかりに見得を切る姿が強烈に印象的だった。
ただ、成河さんの天魔王も人外めいた異様な悪というより、信長の幻影に狂った
哀れな男、妄想狂的なキャラクターだったので、天魔王の影としての捨之介は
あのバランスでよかったのかも知れないと思ったり。
染五郎さんの一人二役の髑髏城のイメージが強すぎたのかもなぁ。
今回の髑髏城は捨之介も天魔王もよりリアルサイズな人間として描く演出意図が
あったのかも知れません。
無界屋蘭兵衛の山本耕史さん、素敵でしたよ。
着物の裾捌きからして色っぽい。
殺陣もピタリと形が決まる。
声がいいんですよね。よく通る透明感のある声。
TVで見るより大きく感じますし、衣装と役柄も相まって、線が細い感じ。
まさに「美形キャラ」と言った趣でございます。
蘭兵衛は設定的にも美味しい役柄だと思うし、山本さん百も承知で、まさに!!
って感じで演じきっておりました。
役の掴み方が上手いんだろうな。聡明な役者さんなんでしょうね。
中盤では彼が主役だっけ???と思ってしまうほど見せ場だらけ。
真っ暗な空に髑髏の模様が浮かぶ真っ白い巨大な月をバックに、
咲き乱れる真っ白い彼岸花に死装束のような着物の彼すっと佇むシーンは
幻想的でとても美しかったです。
個人的には極楽太夫のりょうさんと贋鉄斎の古田新太さんが最高でした。
極楽太夫のりょうさんはとにかくひたすら美しくあだっぽくしなやかで、
いや〜もうあれはですね、男でなくても惚れちゃいますよ!!
男を手玉にとる極上の艶やかさを見せたかと思うと、姐さん肌のきっぷのよさ。
媚びを含んだ甘い声から、からりと男勝りのドスの効いたセリフまで自由自在。
彼女が居るだけで舞台が華やぐんですよね・・・本当に素敵でした。
古田新太さんはTVだと変なおじさんのあらゆるバリエーションを演じる人。
みたいなイメージですが(すいません、個人的な感想です)。
舞台で見るとひたすらスゲーーーーーーーー!!!でした。
贋鉄斎ですから、まぁこれも変なおじさんの一種ではありますが。
刀鍛冶をするうち、刀に愛情を込めすぎて、ついには一本一本に名前をつけて、
「まさこぉぉ〜!」とか叫びながら自分の体を切って快感を覚えるという変態さん。
切り傷だらけのキン肉マンのような扮装でどう見てもおかしなおじさんなのですが。
なんだろう。磁石のように目線を引きつける力は。
舞台の真ん中に立ってるだけでも絵になるし。
(もちろんキン肉マン姿ですがw)
立ち方からして、他の人と違うんじゃないだろうか?と思ったのです。
すっと立ってるだけでも、様になってるんです。
新感線の看板役者さんですし、お客さんを笑わすタイミングも
完璧に掴んでらっしゃる。客席の反応を機敏に察知してコントロールしてる感じ。
いや〜・・・舞台というものをあまり見たことがないので、うまく説明できないのが
もどかしいのですが。
生で、舞台に立つのはお客さんの視線に晒され続けるということ。
それが、TVや映画の世界と質的に全く違うものだということを、古田さんの存在が
実感させてくれた気がします。
もっともっとお芝居を見て見たい。
そう思いました。
カーテンコール。
感無量。
やり切った表情の役者さん。
興奮冷めやらず拍手するお客さん。
カンヌの上映会の後の木村を思い出しました。
インタビューで「客席と一体になれた。一方通行じゃなかった。」と言った。
・・・もし、彼がこの舞台の感じを味えたら、どんな言葉で表現するだろう。
さて、これからステージアラウンド東京へ行く方へ。
周りには何もないので、ゆりかもめに乗車する前に食料・飲み物を確保しましょう。
最後の自販機は最寄りの「市場前駅」になります。
徒歩3分ほどですが、めんどくさいです。
ステージアラウンドのロビーは予想以上に狭いです。
今回入館できたのは開演30分前。それまでは前面の芝生のあるベンチか海側の
散歩道で時間を潰すことになりますが、屋根がありません。
なので雨の日は居場所に困ると思います。
周囲はむき出しの荒地とアスファルトです。
夏の照り返しと日差しは相当なものと予想できますので、日傘は必須です。
行ってまいりました。
今話題の豊洲。ゆりかもめ駅を降りるとそこはひとけのない豊洲市場と茶色い土が
むき出しの広大な空き地。
植樹したばかりと思しき緑の一角にまるで巨大なコンテナのような淡いグレーの箱。
なかなかシュールな光景であります。
中はそれほど広くありません。客席はちょうど傾斜をつけた円盤に乗っかった形で
これが場面によってゆっくりと回転するのですが、ちょっと船が揺れるみたいな
ふわっとした感じがあるので、気になる方もいらっしゃるかも。
舞台は曲面でできたスクリーンのような壁で仕切られ、開閉式になってます。
まるで巨大なエレベーターのドアが開くと、そこに舞台があるイメージ。
この巨大な壁はスクリーンの機能も果たしており、モノクロの映像が投影され、
動く座席とうまく連動して面白い演出効果を発揮しておりました。
例えば人物が全速力で野原を駆け抜けるシーンではすすき野が映し出され、
その手前を役者が走る。
髑髏城内に侵入するシーンでは城の石垣が映し出され、座席がくるっと動くので
自分も中に入ったような錯覚が得られるのです。
ラスト近く、捨之介の見せ場のシーンでは、座席の動きと壁の開くタイミングが
ぴたっと噛み合い、体ごとその場面に吸い込まれて行く感じで、思わすおおっ!!と
興奮いたしました。
また場面によっては天井から霧雨を降らせたり、小川が流れたりの演出も
舞台が連続した円形であること、客席が回るという仕組みならではかもしれません。
ただ、一つ改善していただきたいところが。
それは、音響です。
私の席は前方右手端だったのですが、スピーカーの音が反響しディレイがかかった
ような状態でセリフが聞き取りにくい部分が多々ありました。
インターバルでヘヴィメタの音楽がかかってる時は特に感じなかったので、
役者さんの声を拾うマイクとの相性に問題があるのかもしれません。
セリフが聞こえ辛いのは割と致命的な欠陥ではないかと思いました。
さて。
舞台装置が日本初でかなり斬新な作りだからかもですが、
お芝居の衣装だったり演出は想像したよりずっとオーソドックスでしたね。
以前、染五郎さんが捨之介と天魔王の二役を演じた髑髏城を映画で見ました。
女郎衆がいきなり迷彩服でライフルをぶっ放したり、凝りまくったセリフの応酬で
思い切り笑わせたり、役者の力量全開でこれでもか!!と攻めてる演出でした。
天魔王の手下も仮面ライダーの怪人みたいに突飛な扮装に武器を装備して、
ある意味パンキッシュな、時代性完全無視のなんでもあり、みたいな。
もう一つ、髑髏城内での一つの見せ場、捨之介が斬りかかる敵をバッサバッサと
切り倒しながら、刃こぼれした刀を贋鉄斎に投げ渡し戦いながら研ぎ直した刀を
受け取ってまた切り倒すという、軽業のような刀の投げ渡しシーンが大好きで。
あれがなかったのはちょっと残念でした。
なので、正直、物足りない感じがあるのですが、何年もなんども上演して
少しずつ形が変わっていくのも、この髑髏城の醍醐味なのかもしれません。
「花」の配役は
捨之介を小栗旬さん、無界屋蘭兵衛を山本耕史さん、天魔王を成河さん。
捨之介の小栗さんは生で見るとすらりと背が高く顔が小さくモデル体型ですね。
殺陣の動きもキレがあって若々しい捨之介だなぁという印象でした。
ただその若々しさ故か。
捨之介の色気や暗さが感じられなかったのが物足りず。
遊び人で尻軽で口を開けば女を口説きどこまで本気かわからない冗談ばかり。
だけれどもその軽さが実は消すに消せない過去の薄暗さを隠すため。
どこまでもお馬鹿で軽薄なのに、ある種得体の知れない謎めいた色気が、セリフでも
女性(特に沙霧)との絡みでもあまり感じられなかったのは、小栗旬ならではの
捨之介像を描くための演出だったかも知れません。
ただ、染五郎さんの捨之介では、過去が明らかになり、奇妙な名前の由来を知り、
前半の軽さと後半の業を背負った陰惨さが一人の男の上でせめぎ合う感じが
役者さんのお芝居からくっきり浮かび上がってくるのがなんとも魅力的だったし、
天魔王という一見正反対に見える悪の権化に、ふっと引き寄せられてしまうのでは
というスリリングさをも生み出していましたし、その流れがあるからこそ、
仲間の為ならこの命、捨ましょうとばかりに見得を切る姿が強烈に印象的だった。
ただ、成河さんの天魔王も人外めいた異様な悪というより、信長の幻影に狂った
哀れな男、妄想狂的なキャラクターだったので、天魔王の影としての捨之介は
あのバランスでよかったのかも知れないと思ったり。
染五郎さんの一人二役の髑髏城のイメージが強すぎたのかもなぁ。
今回の髑髏城は捨之介も天魔王もよりリアルサイズな人間として描く演出意図が
あったのかも知れません。
無界屋蘭兵衛の山本耕史さん、素敵でしたよ。
着物の裾捌きからして色っぽい。
殺陣もピタリと形が決まる。
声がいいんですよね。よく通る透明感のある声。
TVで見るより大きく感じますし、衣装と役柄も相まって、線が細い感じ。
まさに「美形キャラ」と言った趣でございます。
蘭兵衛は設定的にも美味しい役柄だと思うし、山本さん百も承知で、まさに!!
って感じで演じきっておりました。
役の掴み方が上手いんだろうな。聡明な役者さんなんでしょうね。
中盤では彼が主役だっけ???と思ってしまうほど見せ場だらけ。
真っ暗な空に髑髏の模様が浮かぶ真っ白い巨大な月をバックに、
咲き乱れる真っ白い彼岸花に死装束のような着物の彼すっと佇むシーンは
幻想的でとても美しかったです。
個人的には極楽太夫のりょうさんと贋鉄斎の古田新太さんが最高でした。
極楽太夫のりょうさんはとにかくひたすら美しくあだっぽくしなやかで、
いや〜もうあれはですね、男でなくても惚れちゃいますよ!!
男を手玉にとる極上の艶やかさを見せたかと思うと、姐さん肌のきっぷのよさ。
媚びを含んだ甘い声から、からりと男勝りのドスの効いたセリフまで自由自在。
彼女が居るだけで舞台が華やぐんですよね・・・本当に素敵でした。
古田新太さんはTVだと変なおじさんのあらゆるバリエーションを演じる人。
みたいなイメージですが(すいません、個人的な感想です)。
舞台で見るとひたすらスゲーーーーーーーー!!!でした。
贋鉄斎ですから、まぁこれも変なおじさんの一種ではありますが。
刀鍛冶をするうち、刀に愛情を込めすぎて、ついには一本一本に名前をつけて、
「まさこぉぉ〜!」とか叫びながら自分の体を切って快感を覚えるという変態さん。
切り傷だらけのキン肉マンのような扮装でどう見てもおかしなおじさんなのですが。
なんだろう。磁石のように目線を引きつける力は。
舞台の真ん中に立ってるだけでも絵になるし。
(もちろんキン肉マン姿ですがw)
立ち方からして、他の人と違うんじゃないだろうか?と思ったのです。
すっと立ってるだけでも、様になってるんです。
新感線の看板役者さんですし、お客さんを笑わすタイミングも
完璧に掴んでらっしゃる。客席の反応を機敏に察知してコントロールしてる感じ。
いや〜・・・舞台というものをあまり見たことがないので、うまく説明できないのが
もどかしいのですが。
生で、舞台に立つのはお客さんの視線に晒され続けるということ。
それが、TVや映画の世界と質的に全く違うものだということを、古田さんの存在が
実感させてくれた気がします。
もっともっとお芝居を見て見たい。
そう思いました。
カーテンコール。
感無量。
やり切った表情の役者さん。
興奮冷めやらず拍手するお客さん。
カンヌの上映会の後の木村を思い出しました。
インタビューで「客席と一体になれた。一方通行じゃなかった。」と言った。
・・・もし、彼がこの舞台の感じを味えたら、どんな言葉で表現するだろう。
さて、これからステージアラウンド東京へ行く方へ。
周りには何もないので、ゆりかもめに乗車する前に食料・飲み物を確保しましょう。
最後の自販機は最寄りの「市場前駅」になります。
徒歩3分ほどですが、めんどくさいです。
ステージアラウンドのロビーは予想以上に狭いです。
今回入館できたのは開演30分前。それまでは前面の芝生のあるベンチか海側の
散歩道で時間を潰すことになりますが、屋根がありません。
なので雨の日は居場所に困ると思います。
周囲はむき出しの荒地とアスファルトです。
夏の照り返しと日差しは相当なものと予想できますので、日傘は必須です。
初めて実物を見た『稲葉曜変天目茶碗』
http://www.seikado.or.jp/collection/clay/001.html
世田谷の静嘉堂美術館
http://www.seikado.or.jp/about/index.htmlにて。
『岩﨑彌之助(彌太郎の弟、三菱第二代社長)と
岩﨑小彌太(三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、
国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍
(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を
収蔵しています』(HPより)
入り口を入ってすぐ奥のガラスケースに収められた茶碗。
予想より小さい。
外側は光沢のない漆黒。
極シンプルで無駄を削ぎ落したフォルムは静かな佇まいで
鑑賞というより用の美。
中を覗き込んだときちょっと鳥肌が立ちました。
なんだこれは?…と。(写真1)
深い藍色でガラス状の肌いちめんに不規則に浮かび上がった白い斑紋。
斑紋の周囲は淡いブルーや金属的な虹色の微かな輝きに縁取られ、見る角度によって
輝き・色彩を刻々と変化させていく。
それは文様というより、有機的に伸縮し姿を変える妖しいいきものの肌のよう。
曜変の曜は耀と同じく<輝き>を意味する漢字だそう。
13世紀頃に中国の南宋で作られたこの茶碗の中に人々は宇宙の姿を見たという。
陶器を焼く過程の何らかの化学作用によって産まれるという<曜変>の茶碗。
完全な姿のものは世界で東京、大阪、京都に3個しか現存せず、その生成過程も未だ謎が多いというエピソードも含め、存在自体がミステリアス。
その隣りには重要文化財の油滴天目茶碗が。
こちらも南宋時代の陶器だそうで、稲葉天目より一回り大きい。
黒い肌にいぶし銀の油滴が浮かんだ姿はすっきりと潔く、陶器としての美しさは
こちらのほうが分かりやすいかも。
稲葉天目は人が用いるには妖しすぎて。
陶器としての美しさとはまた別ものな気がしたので。
*余談ですがスマスマの『ろくろの王国』覚えてます?
あのコーナーで木村さんが作った陶器が偶然『油滴天目』になってたんですよ。
(写真2)
陶器としての完成度とかは別として…なんかやっぱり持ってるなぁと(笑)
静嘉堂美術館では『金銀の系譜~宗達、光琳、抱一をめぐる美の世界』開催中。
素晴らしい和の絵画と工芸品を堪能できるのですが、うーーーーむ。
とっても優雅で美しいのですが…どうもこういう様式美みたいのはあまり心が
動かないのであった(ごめんなさい)。
唯一、抱一の手によるダイナミックな『波図屏風』
鈍い銀箔の巨大な屏風に黒々と太い筆致で奔放にワイルドに描かれたそれは、
まるで現代美術のよう。
うねり・盛り上がる水面から立ち上がった波頭が白く砕け散る。
その抽象性、放つエネルギー。
見る者を揺さぶり、心がざわざわするような、どこか不穏でさえある。
江戸時代、1815年、ちょうど二百年前の人が描いた波の絵が心を揺り動かす。
そうだ。
曜変天目についてWikiで調べたら面白い事実が。
実は日本にはもうひとつ曜変天目茶碗があったそう。
それを所有していたのは織田信長で、気に入って常に持ち歩いていたのが仇となり
本能寺の変の際、持ち主と運命を共にした…つまり焼失してしまったとか。
http://www.seikado.or.jp/collection/clay/001.html
世田谷の静嘉堂美術館
http://www.seikado.or.jp/about/index.htmlにて。
『岩﨑彌之助(彌太郎の弟、三菱第二代社長)と
岩﨑小彌太(三菱第四代社長)の父子二代によって設立され、
国宝7点、重要文化財83点を含む、およそ20万冊の古典籍
(漢籍12万冊・和書8万冊)と6,500点の東洋古美術品を
収蔵しています』(HPより)
入り口を入ってすぐ奥のガラスケースに収められた茶碗。
予想より小さい。
外側は光沢のない漆黒。
極シンプルで無駄を削ぎ落したフォルムは静かな佇まいで
鑑賞というより用の美。
中を覗き込んだときちょっと鳥肌が立ちました。
なんだこれは?…と。(写真1)
深い藍色でガラス状の肌いちめんに不規則に浮かび上がった白い斑紋。
斑紋の周囲は淡いブルーや金属的な虹色の微かな輝きに縁取られ、見る角度によって
輝き・色彩を刻々と変化させていく。
それは文様というより、有機的に伸縮し姿を変える妖しいいきものの肌のよう。
曜変の曜は耀と同じく<輝き>を意味する漢字だそう。
13世紀頃に中国の南宋で作られたこの茶碗の中に人々は宇宙の姿を見たという。
陶器を焼く過程の何らかの化学作用によって産まれるという<曜変>の茶碗。
完全な姿のものは世界で東京、大阪、京都に3個しか現存せず、その生成過程も未だ謎が多いというエピソードも含め、存在自体がミステリアス。
その隣りには重要文化財の油滴天目茶碗が。
こちらも南宋時代の陶器だそうで、稲葉天目より一回り大きい。
黒い肌にいぶし銀の油滴が浮かんだ姿はすっきりと潔く、陶器としての美しさは
こちらのほうが分かりやすいかも。
稲葉天目は人が用いるには妖しすぎて。
陶器としての美しさとはまた別ものな気がしたので。
*余談ですがスマスマの『ろくろの王国』覚えてます?
あのコーナーで木村さんが作った陶器が偶然『油滴天目』になってたんですよ。
(写真2)
陶器としての完成度とかは別として…なんかやっぱり持ってるなぁと(笑)
静嘉堂美術館では『金銀の系譜~宗達、光琳、抱一をめぐる美の世界』開催中。
素晴らしい和の絵画と工芸品を堪能できるのですが、うーーーーむ。
とっても優雅で美しいのですが…どうもこういう様式美みたいのはあまり心が
動かないのであった(ごめんなさい)。
唯一、抱一の手によるダイナミックな『波図屏風』
鈍い銀箔の巨大な屏風に黒々と太い筆致で奔放にワイルドに描かれたそれは、
まるで現代美術のよう。
うねり・盛り上がる水面から立ち上がった波頭が白く砕け散る。
その抽象性、放つエネルギー。
見る者を揺さぶり、心がざわざわするような、どこか不穏でさえある。
江戸時代、1815年、ちょうど二百年前の人が描いた波の絵が心を揺り動かす。
そうだ。
曜変天目についてWikiで調べたら面白い事実が。
実は日本にはもうひとつ曜変天目茶碗があったそう。
それを所有していたのは織田信長で、気に入って常に持ち歩いていたのが仇となり
本能寺の変の際、持ち主と運命を共にした…つまり焼失してしまったとか。
http://www.niki2015.jp
ニキ・ド・サンファル。
子供の頃から名前と作品を知っていたので、
不思議な懐かしさがありました。
ニキといえばカラフルな色彩と大きくデフォルメされた
女性の肉体や、暗示的に絡み合うヘビをモチーフとした
オブジェを思い出します。
しかしそのイメージは、時代と共に変化し、
成熟しながら走り続けた彼女の、
ごく一部だったのだと知りました。
最初期、アーティストとして生きて行く決意表明の時期の作品は
’50年代アルジェリア戦争のまっただ中だったパリの空気を
反映したのか、<生む性>である女性のデフォルメされた肉体に
<恐怖・破壊>を象徴する爬虫類やピストルのおもちゃを貼付け、
白と黒の対比を巧みに利用したアグレッシブな作品が中心です。
その頂点が『射撃アート』。
http://www.niki2015.jp/point/point1.html#link
人形や造花、教会の模型など様々な<人間の営み>を連想させるものと塗料の入った缶を大きな板に張り付けて真っ白な漆喰で塗込んだものをキャンバスに見立て、
ライフルで打ち抜くことで彩色していくパフォーマンス。
会場で’61年当時のフィルムを見たのですけれども、小鳥の声が響くのどかな野原に
観客を集め、雑誌のモデルでもあった容姿端麗な彼女が、目の前でライフルを撃ち
<作品>をぶち抜いていく様子は今見てもかなりのインパクトがあります。
当時衝撃的に受け止められたのも当然でしょう。
そしてニキは、自分がどう見えるかよーくわかってやってる感じ。楽しそう。
でも、その行為自体を楽しんでしまうと、本来のテーマから外れるんじゃ?
…と思っていたら、ご本人も「のめり込み過ぎるのは危険」と感じて、
二年でスッパリ止めたそうです(笑)
やがて彼女は自分と周りの女性たちを取り巻く社会への疑問から、女性性の開放を
テーマにした作品作りへと傾倒して行きます。
妊娠した友人の姿がヒントとなって生まれたのが、彼女の代表作となる『ナナ』
http://www.niki2015.jp/point/point2.html#link
大きな乳房、妊婦のように膨らんだ腹、りっぱなお尻と太もも。
アフリカの民族衣装のようなカラフルで力強い原色の色使い。
激しく打ち鳴らすドラムの音が聞こえてきそうな大胆な動きを感じるポーズ。
豊満で圧倒的な肉体とは対照的に、頭は極端に小さい。
それはたぶん『ナナ』が特定の誰かでなく全ての女性への祝福であり讃歌だから。
今よりも女性の社会参加が制限され、女らしさの価値観が固定化されていた時代。
ニキは社会を攻撃するのでなく、女性を肯定的に捉え賞賛することで、抑圧を否定し
より自由を手に入れる道を選んだ。
初期の危うさを内包したアグレッシブさから、よりしたたかに・力強くなったのを
感じました。
ニキがアーティストを志したのは重い精神疾患にかかったのがきっかけだそう。
創作活動が病気からのリハビリテーションに有効だったからとか。
草間彌生に似てるな…と思いました。
彼女も精神の病に苦しみ、壊れそうな自我の支えとして創作活動を続けている。
パリとNY/東京という違いはあれ、二人とも女性を取り巻く様々な抑圧を強く感じ、
創ることで内なる闘いを外へ・社会と人々に向けて発信していく。
ただ、二人の内面世界が発展・深化していく過程はある意味対照的。
永遠の少女の世界に留まり続けながら、遥か宇宙の彼方・時間の終わる場所までを
見通そうとする草間彌生。
少女から女性へ、より充実した生を求め、変化流転しながら世界と自我とが交わる
場所を探し続けたニキ・ド・サンファル。
晩年、ニキは日本のコレクター増田静江氏と出会い、交流を深めながらスピリチュアルな世界の探求へと傾倒していったようです。
日本のニキ美術館は残念ながら閉館してしまいましたが、イタリアのトスカーナの
とある場所にニキのオブジェで埋め尽くされた『タロットガーデン』があるそう。
http://www.niki2015.jp/point/point6.html#link
会場でフィルムを見ましたが、タイルとガラスとで埋め尽くされた不思議な庭は
この世のものとは思えない、奇妙な美しさ。
行ってみたいなぁ…。
最後の、タロットガーデンのコーナー。
会場の真ん中に鎮座する、たくさんのヘビの頭の枝を持つ、ガラスとタイルでできた
輝く神秘の樹のオブジェ。
北欧神話に出てくる『世界樹』を連想しました。
ニキはついに世界と自分の交わる場所を…永遠の庭を見つけたのかもしれません。
*写真1『ブッダ』 2『フクロウの椅子』 3『ナナ』
ニキ・ド・サンファル。
子供の頃から名前と作品を知っていたので、
不思議な懐かしさがありました。
ニキといえばカラフルな色彩と大きくデフォルメされた
女性の肉体や、暗示的に絡み合うヘビをモチーフとした
オブジェを思い出します。
しかしそのイメージは、時代と共に変化し、
成熟しながら走り続けた彼女の、
ごく一部だったのだと知りました。
最初期、アーティストとして生きて行く決意表明の時期の作品は
’50年代アルジェリア戦争のまっただ中だったパリの空気を
反映したのか、<生む性>である女性のデフォルメされた肉体に
<恐怖・破壊>を象徴する爬虫類やピストルのおもちゃを貼付け、
白と黒の対比を巧みに利用したアグレッシブな作品が中心です。
その頂点が『射撃アート』。
http://www.niki2015.jp/point/point1.html#link
人形や造花、教会の模型など様々な<人間の営み>を連想させるものと塗料の入った缶を大きな板に張り付けて真っ白な漆喰で塗込んだものをキャンバスに見立て、
ライフルで打ち抜くことで彩色していくパフォーマンス。
会場で’61年当時のフィルムを見たのですけれども、小鳥の声が響くのどかな野原に
観客を集め、雑誌のモデルでもあった容姿端麗な彼女が、目の前でライフルを撃ち
<作品>をぶち抜いていく様子は今見てもかなりのインパクトがあります。
当時衝撃的に受け止められたのも当然でしょう。
そしてニキは、自分がどう見えるかよーくわかってやってる感じ。楽しそう。
でも、その行為自体を楽しんでしまうと、本来のテーマから外れるんじゃ?
…と思っていたら、ご本人も「のめり込み過ぎるのは危険」と感じて、
二年でスッパリ止めたそうです(笑)
やがて彼女は自分と周りの女性たちを取り巻く社会への疑問から、女性性の開放を
テーマにした作品作りへと傾倒して行きます。
妊娠した友人の姿がヒントとなって生まれたのが、彼女の代表作となる『ナナ』
http://www.niki2015.jp/point/point2.html#link
大きな乳房、妊婦のように膨らんだ腹、りっぱなお尻と太もも。
アフリカの民族衣装のようなカラフルで力強い原色の色使い。
激しく打ち鳴らすドラムの音が聞こえてきそうな大胆な動きを感じるポーズ。
豊満で圧倒的な肉体とは対照的に、頭は極端に小さい。
それはたぶん『ナナ』が特定の誰かでなく全ての女性への祝福であり讃歌だから。
今よりも女性の社会参加が制限され、女らしさの価値観が固定化されていた時代。
ニキは社会を攻撃するのでなく、女性を肯定的に捉え賞賛することで、抑圧を否定し
より自由を手に入れる道を選んだ。
初期の危うさを内包したアグレッシブさから、よりしたたかに・力強くなったのを
感じました。
ニキがアーティストを志したのは重い精神疾患にかかったのがきっかけだそう。
創作活動が病気からのリハビリテーションに有効だったからとか。
草間彌生に似てるな…と思いました。
彼女も精神の病に苦しみ、壊れそうな自我の支えとして創作活動を続けている。
パリとNY/東京という違いはあれ、二人とも女性を取り巻く様々な抑圧を強く感じ、
創ることで内なる闘いを外へ・社会と人々に向けて発信していく。
ただ、二人の内面世界が発展・深化していく過程はある意味対照的。
永遠の少女の世界に留まり続けながら、遥か宇宙の彼方・時間の終わる場所までを
見通そうとする草間彌生。
少女から女性へ、より充実した生を求め、変化流転しながら世界と自我とが交わる
場所を探し続けたニキ・ド・サンファル。
晩年、ニキは日本のコレクター増田静江氏と出会い、交流を深めながらスピリチュアルな世界の探求へと傾倒していったようです。
日本のニキ美術館は残念ながら閉館してしまいましたが、イタリアのトスカーナの
とある場所にニキのオブジェで埋め尽くされた『タロットガーデン』があるそう。
http://www.niki2015.jp/point/point6.html#link
会場でフィルムを見ましたが、タイルとガラスとで埋め尽くされた不思議な庭は
この世のものとは思えない、奇妙な美しさ。
行ってみたいなぁ…。
最後の、タロットガーデンのコーナー。
会場の真ん中に鎮座する、たくさんのヘビの頭の枝を持つ、ガラスとタイルでできた
輝く神秘の樹のオブジェ。
北欧神話に出てくる『世界樹』を連想しました。
ニキはついに世界と自分の交わる場所を…永遠の庭を見つけたのかもしれません。
*写真1『ブッダ』 2『フクロウの椅子』 3『ナナ』
浮世絵と江戸のダンディズム
2015年6月14日 趣味 コメント (8)
昨日は太田記念美術館と根津美術館をはしごしてまいりました。
太田記念美術館は原宿駅から徒歩5分。
そこから表参道をまっすぐ15分ほど歩いた突き当たりに
根津美術館があります。
どちらも現在は『江戸』をテーマの展示を行っているので、
ぜひセットで!と、Twitterで紹介されていたのです。
https://twitter.com/ukiyoeota/status/603742811649892353
太田記念美術館は浮世絵専門の美術館。
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp
今回の展示テーマは『江戸の悪』。
江戸時代、盗賊や悪党が捕まるとその悪事の数々が
庶民の好奇心をかき立て、様々な逸話が脚色されて
熱心に読まれていたそうです。
残虐な殺人、盗みから色恋沙汰が引き起こす怨念物語など。
好んで浮世絵に描かれ、歌舞伎の題材となって上演されたと。
有名な「お岩」や「番長皿屋敷」を描いたものもありました。
浮世絵には二つのパターンがあるなと思いました。
一つは物語のクライマックスを想像力に任せて描いたもの。
もう一つは当時の有名な歌舞伎役者がその物語を演じている場面を描いたもの。
前者は物語りの挿絵的なイメージで、後者はある種のブロマイド的な役割だったのか
なぁと思いました。
浮世絵には独特の様式美みたいなものがあって、遠近感とか人物のポージングとか
全く写実的ではないのですが、描きたいものがはっきりしていて、イメージとしては
コミックに近いのかなぁと。日本のマンガ文化は世界でも特異な発展を遂げてますが
元祖は浮世絵にあるのかもしれません。
作家によって描き方に個性があるのですが、凄惨さ、人の情念の暗さが一番滲み出てたのは月岡芳年の作品だったな。
描きたいものがハッキリしている。
一番怖かったのはこの方の描いた安珍清姫。
びっしょり濡れて長い黒髪が着物に張り付いてる清姫が、ずるずると岸に上がって
きたと思われるシーン。もうね…はんぱないっすよ、清姫…。濃過ぎ…。
浮世絵を見るたびに、ああ、歌舞伎を見てみたいなぁって思います。
あの中に描かれている人物の、芝居がかったポージングや平面的ながらドラマチックな画面構成は、たぶん歌舞伎の舞台を想定してるんじゃないかなと。
なので、舞台をみれば描かれた世界への理解も深まり、面白さが増すに違いない。
…と思っております。
余談ですが、たまたま隣に居た10代後半〜20代前半と思われる女子二人。
弁慶と牛若丸を描いた作品に釘付け。
「うわぁ…おっさんカッコいい!」「牛若丸、綺麗!」
「この感じ、薄い本だと上手く出ないんだよねぇ。」
「浮世絵、いいわぁ。見蕩れる…」
(注:薄い本=同人誌のこと)
…どうやら浮世絵は腐女子にも大人気のようです。
太田記念美術館を出て表参道をまっすぐ歩きます。
昔、骨董通りと呼ばれ、雰囲気のある雑貨屋やアンティークショップがぽつぽつと
並んでいたあたり、現在はプレステージブランドの旗艦店が軒をつらね随分様変わりしていました。ヨックモックとフロムファースト位でしょうかね変わらないのは。
…などと時の流れを感じつつ。
根津美術館に到着。
こちら、数年前に建て替えられたのですね。
実に素晴らしい建築です。
隙間なく植られた竹が外界をシャットアウトしたファサード
美しい直線的な構成が和の空気を醸し出し、来館者はここを通ることで別世界へと
導かれるような気分になります。(写真1、2)
昨日は真夏のように暑く、お腹も空いて来たのでまずNEZU cafeへ。
ここがまた素晴らしい内装なんです。
美しく整えられたお庭を通って中へ。
三方が大きなガラス窓になっていて、そこから見える庭園の緑の演出がお見事。
(写真3)
もうね、東京の、青山の、ど真ん中なのに!!!信じられません。
京都の嵐山あたりの料亭の景色かと(*あくまで想像です)
窓から見える巨木の幹、瑞々しい緑。それらが一幅の画のように切りとられている。
いや〜…建築家さんの力って凄いですね。
もう、建物見にくるだけでも満たされますよ、根津美術館。
いや、ちゃんと展示も見ましたけど。
こちらは『江戸のダンディズム』がテーマ。
展示されているのは、刀と薬籠。
専門的な知識が全くないので、見たままの感想しか無いのですが…。
江戸時代の武士にとって刀って武器というより装飾品だったのですね。
それも頗る豪奢な。
抜き身の刃も多数展示されていたのですが、その怜悧な輝き・精緻を極めた形。
わずかな刃の曲線も焼き入れの色や形も、それぞれ個性がある。
一切無駄のないフォルムのために、どれだけの技術と尽力が必要だったでしょう。
きっと作り手の中に理想のフォルムが存在していて、そこへ近づくために炎と熱と
戦いながら鍛えあげていく、鉄。
本来、人を殺傷するための道具には、持つ側の気魄と覚悟が要求されるのと同様、
作り手も同じ高みを目指したに違いない、と思いました。
それだけ精魂込めて作られた刃に加えられていく鍔や柄、鞘などの装飾も素晴らしい
ものがあります。
貴石や象眼、漆塗り、蒔絵。当時の技が随所に使われた素晴らしい工芸品。
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/
江戸のダンディズム。
刀というものへのイメージが180度変わってしまいました。
太田記念美術館も根津美術館も個人所有の美術品を展示している美術館です。
教養とセンスがあり、良いもの・美しいものを私財を投げ打って収集し、たくさんの
人たちに見てもらう。
欧米の美術もですが、教養のあるお金持ちが居てこその発展・保存なのですよね。
根津美術館とその周りの庭園は根津さんという方の私財だったわけですし。
本当のお金持ちって有り難い存在だよなぁ。と実感した次第。
江戸を巡る二つの美術館巡りをして気づいたこと。
外国人が多い。そして意外なほど若い子が多い。
太田記念美術館なんて、土曜日ってこともあるだろうけど、1/3は10〜20代ですよ。
場所柄もあるだろうけど、Twitterでこまめに宣伝してるのも大きいだろうなぁ。
あ、太田記念美術館のグッズ、すごく可愛いんですよ。
国芳の浮世絵の猫をモチーフにしたガーゼ手ぬぐいとか便せんとかシールとか。
来るたびにお土産としてついつい買ってしまいます。
太田記念美術館は原宿駅から徒歩5分。
そこから表参道をまっすぐ15分ほど歩いた突き当たりに
根津美術館があります。
どちらも現在は『江戸』をテーマの展示を行っているので、
ぜひセットで!と、Twitterで紹介されていたのです。
https://twitter.com/ukiyoeota/status/603742811649892353
太田記念美術館は浮世絵専門の美術館。
http://www.ukiyoe-ota-muse.jp
今回の展示テーマは『江戸の悪』。
江戸時代、盗賊や悪党が捕まるとその悪事の数々が
庶民の好奇心をかき立て、様々な逸話が脚色されて
熱心に読まれていたそうです。
残虐な殺人、盗みから色恋沙汰が引き起こす怨念物語など。
好んで浮世絵に描かれ、歌舞伎の題材となって上演されたと。
有名な「お岩」や「番長皿屋敷」を描いたものもありました。
浮世絵には二つのパターンがあるなと思いました。
一つは物語のクライマックスを想像力に任せて描いたもの。
もう一つは当時の有名な歌舞伎役者がその物語を演じている場面を描いたもの。
前者は物語りの挿絵的なイメージで、後者はある種のブロマイド的な役割だったのか
なぁと思いました。
浮世絵には独特の様式美みたいなものがあって、遠近感とか人物のポージングとか
全く写実的ではないのですが、描きたいものがはっきりしていて、イメージとしては
コミックに近いのかなぁと。日本のマンガ文化は世界でも特異な発展を遂げてますが
元祖は浮世絵にあるのかもしれません。
作家によって描き方に個性があるのですが、凄惨さ、人の情念の暗さが一番滲み出てたのは月岡芳年の作品だったな。
描きたいものがハッキリしている。
一番怖かったのはこの方の描いた安珍清姫。
びっしょり濡れて長い黒髪が着物に張り付いてる清姫が、ずるずると岸に上がって
きたと思われるシーン。もうね…はんぱないっすよ、清姫…。濃過ぎ…。
浮世絵を見るたびに、ああ、歌舞伎を見てみたいなぁって思います。
あの中に描かれている人物の、芝居がかったポージングや平面的ながらドラマチックな画面構成は、たぶん歌舞伎の舞台を想定してるんじゃないかなと。
なので、舞台をみれば描かれた世界への理解も深まり、面白さが増すに違いない。
…と思っております。
余談ですが、たまたま隣に居た10代後半〜20代前半と思われる女子二人。
弁慶と牛若丸を描いた作品に釘付け。
「うわぁ…おっさんカッコいい!」「牛若丸、綺麗!」
「この感じ、薄い本だと上手く出ないんだよねぇ。」
「浮世絵、いいわぁ。見蕩れる…」
(注:薄い本=同人誌のこと)
…どうやら浮世絵は腐女子にも大人気のようです。
太田記念美術館を出て表参道をまっすぐ歩きます。
昔、骨董通りと呼ばれ、雰囲気のある雑貨屋やアンティークショップがぽつぽつと
並んでいたあたり、現在はプレステージブランドの旗艦店が軒をつらね随分様変わりしていました。ヨックモックとフロムファースト位でしょうかね変わらないのは。
…などと時の流れを感じつつ。
根津美術館に到着。
こちら、数年前に建て替えられたのですね。
実に素晴らしい建築です。
隙間なく植られた竹が外界をシャットアウトしたファサード
美しい直線的な構成が和の空気を醸し出し、来館者はここを通ることで別世界へと
導かれるような気分になります。(写真1、2)
昨日は真夏のように暑く、お腹も空いて来たのでまずNEZU cafeへ。
ここがまた素晴らしい内装なんです。
美しく整えられたお庭を通って中へ。
三方が大きなガラス窓になっていて、そこから見える庭園の緑の演出がお見事。
(写真3)
もうね、東京の、青山の、ど真ん中なのに!!!信じられません。
京都の嵐山あたりの料亭の景色かと(*あくまで想像です)
窓から見える巨木の幹、瑞々しい緑。それらが一幅の画のように切りとられている。
いや〜…建築家さんの力って凄いですね。
もう、建物見にくるだけでも満たされますよ、根津美術館。
いや、ちゃんと展示も見ましたけど。
こちらは『江戸のダンディズム』がテーマ。
展示されているのは、刀と薬籠。
専門的な知識が全くないので、見たままの感想しか無いのですが…。
江戸時代の武士にとって刀って武器というより装飾品だったのですね。
それも頗る豪奢な。
抜き身の刃も多数展示されていたのですが、その怜悧な輝き・精緻を極めた形。
わずかな刃の曲線も焼き入れの色や形も、それぞれ個性がある。
一切無駄のないフォルムのために、どれだけの技術と尽力が必要だったでしょう。
きっと作り手の中に理想のフォルムが存在していて、そこへ近づくために炎と熱と
戦いながら鍛えあげていく、鉄。
本来、人を殺傷するための道具には、持つ側の気魄と覚悟が要求されるのと同様、
作り手も同じ高みを目指したに違いない、と思いました。
それだけ精魂込めて作られた刃に加えられていく鍔や柄、鞘などの装飾も素晴らしい
ものがあります。
貴石や象眼、漆塗り、蒔絵。当時の技が随所に使われた素晴らしい工芸品。
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/
江戸のダンディズム。
刀というものへのイメージが180度変わってしまいました。
太田記念美術館も根津美術館も個人所有の美術品を展示している美術館です。
教養とセンスがあり、良いもの・美しいものを私財を投げ打って収集し、たくさんの
人たちに見てもらう。
欧米の美術もですが、教養のあるお金持ちが居てこその発展・保存なのですよね。
根津美術館とその周りの庭園は根津さんという方の私財だったわけですし。
本当のお金持ちって有り難い存在だよなぁ。と実感した次第。
江戸を巡る二つの美術館巡りをして気づいたこと。
外国人が多い。そして意外なほど若い子が多い。
太田記念美術館なんて、土曜日ってこともあるだろうけど、1/3は10〜20代ですよ。
場所柄もあるだろうけど、Twitterでこまめに宣伝してるのも大きいだろうなぁ。
あ、太田記念美術館のグッズ、すごく可愛いんですよ。
国芳の浮世絵の猫をモチーフにしたガーゼ手ぬぐいとか便せんとかシールとか。
来るたびにお土産としてついつい買ってしまいます。
A Life with Camera
2015年5月4日 趣味上田義彦さんの写真って意識してなくても『無印良品』とか『サントリー烏龍茶』
のポスターを撮ってらっしゃるといえば結構な割合の方が「ああ!」って思うんじゃ
ないでしょうか。
木村ファンならTOYOTA ReBORNやUOMO、ananでのコラボが思い浮かぶはず。
その上田義彦さんが35年間の軌跡を自ら選んだ写真で辿る展覧会に行きました。
http://gallery916.com/exhibition/alifewithcamera/
上田さんの写真を一言で表現するなら<端正>でしょうか。
被写体、構図、色彩。
写真集を開くとき、オリジナルプリントに対面するとき。
なんだか背筋を伸ばし、衿を正さなきゃいけない気分になるのです。
シャッターを切る。
その一瞬に辿り着くまでの、気が遠くなるような瞬間の積み重ね。
被写体と写真家。ギリギリまで突き詰め向かい合う緊張感。
被写体は人物、情景、風景、生物と様々ですが一貫した上田さんの視線を感じる。
糸井重里氏の『ほぼ日』でギャラリーの様子と上田さんのインタビューを連載中。
http://www.1101.com/ueda_yoshihiko2/2015-05-04.html
A Life with Camera=カメラと共に在る人生。タイトル通りの構成です。
個人的に一番印象に残ったのはM.Seaのシリーズ、夜の海。
http://shooting-mag.jp/news/image/2014M.Sea.jpg
真っ暗闇に微かに浮き上がる白い飛沫。
それが何なのか理解する前に直観的に感じ取るエネルギーの噴出。
闇夜に波を見て・撮っているのは上田義彦という写真家の目であり、写っているのは彼が感じた<その>瞬間。ずっとずっと見つめ続けるうち、自分と対象の境が曖昧になっていく、その瞬間に切られたシャッター。
その写真を見る私は、映っているのが波であると理解するより早く、写真家の
<視る目線>と同化している感覚。
自分じゃない人の目で何かを視る、隅々まで端正な、カメラと共にある目線で。
その体験はとっても…スリリングでした。
キムラさんの写真、2枚あります。
1枚はReBORNの一番最初のやつ。
もう一枚は明るいスカイブルーをバックに同じ色のスーツに身を包んだ彼。
上田さんの視た彼は、端正で強固、しなやか。
のポスターを撮ってらっしゃるといえば結構な割合の方が「ああ!」って思うんじゃ
ないでしょうか。
木村ファンならTOYOTA ReBORNやUOMO、ananでのコラボが思い浮かぶはず。
その上田義彦さんが35年間の軌跡を自ら選んだ写真で辿る展覧会に行きました。
http://gallery916.com/exhibition/alifewithcamera/
上田さんの写真を一言で表現するなら<端正>でしょうか。
被写体、構図、色彩。
写真集を開くとき、オリジナルプリントに対面するとき。
なんだか背筋を伸ばし、衿を正さなきゃいけない気分になるのです。
シャッターを切る。
その一瞬に辿り着くまでの、気が遠くなるような瞬間の積み重ね。
被写体と写真家。ギリギリまで突き詰め向かい合う緊張感。
被写体は人物、情景、風景、生物と様々ですが一貫した上田さんの視線を感じる。
糸井重里氏の『ほぼ日』でギャラリーの様子と上田さんのインタビューを連載中。
http://www.1101.com/ueda_yoshihiko2/2015-05-04.html
A Life with Camera=カメラと共に在る人生。タイトル通りの構成です。
個人的に一番印象に残ったのはM.Seaのシリーズ、夜の海。
http://shooting-mag.jp/news/image/2014M.Sea.jpg
真っ暗闇に微かに浮き上がる白い飛沫。
それが何なのか理解する前に直観的に感じ取るエネルギーの噴出。
闇夜に波を見て・撮っているのは上田義彦という写真家の目であり、写っているのは彼が感じた<その>瞬間。ずっとずっと見つめ続けるうち、自分と対象の境が曖昧になっていく、その瞬間に切られたシャッター。
その写真を見る私は、映っているのが波であると理解するより早く、写真家の
<視る目線>と同化している感覚。
自分じゃない人の目で何かを視る、隅々まで端正な、カメラと共にある目線で。
その体験はとっても…スリリングでした。
キムラさんの写真、2枚あります。
1枚はReBORNの一番最初のやつ。
もう一枚は明るいスカイブルーをバックに同じ色のスーツに身を包んだ彼。
上田さんの視た彼は、端正で強固、しなやか。
幸福な写真(野口里佳写真展)
2014年10月16日 趣味野口里佳写真展『父のアルバム/不思議な力』に行ってきました。
http://gallery916.com/exhibition/
野口さんの写真、私は前回の横浜トリエンナーレで出会ってから大好きで。
以前の日記にも書きました。
http://holidaze.diarynote.jp/201109281544358639/
トリエンナーレや、たぬきん師匠と見た2012年の伊豆の写真美術館での個展とは
今回のGallery916の展示はちょっと趣が違った。
今回は彼女の最新作数点『不思議な力』と、彼女のお父様がオリンパス・ペンという
カメラで撮影した家族写真『父のアルバム』との2本仕立て。
野口里佳の写真は前にも書きましたが…徹底した観察者の視点なのです。
富士山登山、スキューバダイビング、あるいは宇宙に向かって一直線に飛んで行く
ロケットの航跡、浅瀬を浚渫する巨大なショベル、クレーン。
そして最新作では<光>そのものを印画紙の上に焼き付ける試み。
私たちは日常、意識しないままに光に頼ってモノを見ている。
美しい風景、心に残る誰かの顔、今朝の空、昨夜の月。
あるいは、映画やTVやPC、スマホの画面。
およそヒトがモノを見るのに光の力を介在しない機会など、無に等しい。
…しかしヒトは<光が照らし出す>何かを見つめることはあっても、
<光そのもの>を、改めて見つめる経験は本当に少ないと思う。
『光ってなに?』
その素朴で根源的な疑問にまっすぐ向き合った写真家ってそんなに居ないと思う。
具体的には、「庭らしき背景の手前にくっきり映り込んだ光線の形作る六角形』とか
『プリズムを通した七色の光』とか『心霊写真みたく楕円形に映り込んだ反射光』
…とか、なんですが。
なんだろうな…<目>のある彼女が捉えたそれらは単に露光を失敗した写真でなく、
ある意志を持って切りとられた日常の中の見えない何か、だと理解できる。
何だろう?面白い試みだけど、彼女は何でコレをやろうと思い立ったのか?
…そんなことを考えつつ、『父のアルバム』のコーナーへ。
こちらの写真は野口氏のお父様が撮った家族写真です。
亡くなったお父様の残した写真を、野口さんが自らプリントしたもの。
被写体は当然家族だったり家の庭だったりします。
ここで一つの疑問。
野口里佳の<お父さん>の撮った写真を野口里佳の写真展で展示することの意味。
私もその疑問を抱えて(結構懐疑的な気分で)作品に向き合いました。
<写真家自身がシャッターを切ってない作品は果たして自身の作と言えるのか否か>
…答えはYESでありNOである。
YES=それらの写真は確かに野口里佳の写真として存在していた
NO=しかし写真を撮ったその瞬間、写真家としての野口里佳は存在していなかった
二十代と思われる可愛らしい妻の、車窓に凭れた幸せそうな表情からそのシリーズが始まった。
それと対になるようにレイアウトされた写真家自身の、生真面目で幸福そうな顔。
そこから、恐らく野口自身と思われる小さな女の子の、穏やかな幸せの日常へ。
すくすくと育つ娘。
長男。
ささやかな庭に咲くピンクやイエローの薔薇。
置き忘れられたドールハウス。
黄色いシマシマのとっくりセーターを着た女の子。
縄跳びする女の子。
聡明で優しそうな妻。
次女の誕生。
仲良しの姉弟。
笑顔。
庭の花々。
春、夏、秋、冬。
新学期。
彼女の父は家族にも庭の薔薇にもありのままの姿で向き合い、ありのままの瞬間に
シャッターを切ろうとしていた。
その意志が感じられる。
シャッターチャンスは、おすまし顔でなく一瞬の笑顔。または無表情。
家族写真でありながら、<野口里佳>個人でなく、私やあなた、他の誰かの日常。
普遍的な<家族>と<その幸福>を、ありのままの姿で見ようとする意志。
多くの人がその恩恵を受け幸せを感じながら、ほとんど意識することのない<家族>
その、ひとりひとりに惜しみない愛情を注ぎながら、徹底した観察者であろうとした父の視点。
たぶん野口里佳のお父さんはそんな意識のないまま、幸福感と観察者の目線の両方でもって、カメラのシャッターを切ったに違いないと思わせる写真群。
それをチョイスし、印画紙に焼き付け、最適と思われる大きさに引き延ばし、
額装したのは、野口里佳という写真家の目と手。
『不思議な力』の写真群と、『父のアルバム』の写真群は、間違いなく同じ視線・
意志に貫かれていると感じました。
野口里佳とその父の目線とが、印画紙の上で寸分なく重なり像をむすぶ。
対象への興味と愛情、視点の選び方から瞬間の切りとり方まで。
つまり、対象への『ものの見方』は父から娘へと確実に受け継がれたのだな、と。
それが染色体レベルの情報なのか、または生育過程で獲得されたものなのか、は
わかりません。
しかし確実に<それ>は伝承し、受け継がれて行く。
私と父・母、そして家族の皆が、どこか根本的なところで繋がっているように。
見ているうちに涙が溢れそうになりました。
http://gallery916.com/exhibition/
野口さんの写真、私は前回の横浜トリエンナーレで出会ってから大好きで。
以前の日記にも書きました。
http://holidaze.diarynote.jp/201109281544358639/
トリエンナーレや、たぬきん師匠と見た2012年の伊豆の写真美術館での個展とは
今回のGallery916の展示はちょっと趣が違った。
今回は彼女の最新作数点『不思議な力』と、彼女のお父様がオリンパス・ペンという
カメラで撮影した家族写真『父のアルバム』との2本仕立て。
野口里佳の写真は前にも書きましたが…徹底した観察者の視点なのです。
富士山登山、スキューバダイビング、あるいは宇宙に向かって一直線に飛んで行く
ロケットの航跡、浅瀬を浚渫する巨大なショベル、クレーン。
そして最新作では<光>そのものを印画紙の上に焼き付ける試み。
私たちは日常、意識しないままに光に頼ってモノを見ている。
美しい風景、心に残る誰かの顔、今朝の空、昨夜の月。
あるいは、映画やTVやPC、スマホの画面。
およそヒトがモノを見るのに光の力を介在しない機会など、無に等しい。
…しかしヒトは<光が照らし出す>何かを見つめることはあっても、
<光そのもの>を、改めて見つめる経験は本当に少ないと思う。
『光ってなに?』
その素朴で根源的な疑問にまっすぐ向き合った写真家ってそんなに居ないと思う。
具体的には、「庭らしき背景の手前にくっきり映り込んだ光線の形作る六角形』とか
『プリズムを通した七色の光』とか『心霊写真みたく楕円形に映り込んだ反射光』
…とか、なんですが。
なんだろうな…<目>のある彼女が捉えたそれらは単に露光を失敗した写真でなく、
ある意志を持って切りとられた日常の中の見えない何か、だと理解できる。
何だろう?面白い試みだけど、彼女は何でコレをやろうと思い立ったのか?
…そんなことを考えつつ、『父のアルバム』のコーナーへ。
こちらの写真は野口氏のお父様が撮った家族写真です。
亡くなったお父様の残した写真を、野口さんが自らプリントしたもの。
被写体は当然家族だったり家の庭だったりします。
ここで一つの疑問。
野口里佳の<お父さん>の撮った写真を野口里佳の写真展で展示することの意味。
私もその疑問を抱えて(結構懐疑的な気分で)作品に向き合いました。
<写真家自身がシャッターを切ってない作品は果たして自身の作と言えるのか否か>
…答えはYESでありNOである。
YES=それらの写真は確かに野口里佳の写真として存在していた
NO=しかし写真を撮ったその瞬間、写真家としての野口里佳は存在していなかった
二十代と思われる可愛らしい妻の、車窓に凭れた幸せそうな表情からそのシリーズが始まった。
それと対になるようにレイアウトされた写真家自身の、生真面目で幸福そうな顔。
そこから、恐らく野口自身と思われる小さな女の子の、穏やかな幸せの日常へ。
すくすくと育つ娘。
長男。
ささやかな庭に咲くピンクやイエローの薔薇。
置き忘れられたドールハウス。
黄色いシマシマのとっくりセーターを着た女の子。
縄跳びする女の子。
聡明で優しそうな妻。
次女の誕生。
仲良しの姉弟。
笑顔。
庭の花々。
春、夏、秋、冬。
新学期。
彼女の父は家族にも庭の薔薇にもありのままの姿で向き合い、ありのままの瞬間に
シャッターを切ろうとしていた。
その意志が感じられる。
シャッターチャンスは、おすまし顔でなく一瞬の笑顔。または無表情。
家族写真でありながら、<野口里佳>個人でなく、私やあなた、他の誰かの日常。
普遍的な<家族>と<その幸福>を、ありのままの姿で見ようとする意志。
多くの人がその恩恵を受け幸せを感じながら、ほとんど意識することのない<家族>
その、ひとりひとりに惜しみない愛情を注ぎながら、徹底した観察者であろうとした父の視点。
たぶん野口里佳のお父さんはそんな意識のないまま、幸福感と観察者の目線の両方でもって、カメラのシャッターを切ったに違いないと思わせる写真群。
それをチョイスし、印画紙に焼き付け、最適と思われる大きさに引き延ばし、
額装したのは、野口里佳という写真家の目と手。
『不思議な力』の写真群と、『父のアルバム』の写真群は、間違いなく同じ視線・
意志に貫かれていると感じました。
野口里佳とその父の目線とが、印画紙の上で寸分なく重なり像をむすぶ。
対象への興味と愛情、視点の選び方から瞬間の切りとり方まで。
つまり、対象への『ものの見方』は父から娘へと確実に受け継がれたのだな、と。
それが染色体レベルの情報なのか、または生育過程で獲得されたものなのか、は
わかりません。
しかし確実に<それ>は伝承し、受け継がれて行く。
私と父・母、そして家族の皆が、どこか根本的なところで繋がっているように。
見ているうちに涙が溢れそうになりました。
フランシス・ベーコン展
2013年3月12日 趣味 コメント (2)フランシス・ベーコンの描く溶け出した肌色のプラスティックのような質感の肉。
目鼻立ちも定かでない顔にぽっかりと開いた真空の穴のような口。
その空虚な黒い穴から発せられている音の無い絶望の叫び。
初めて彼の作品を目にしたのは、美術雑誌だったと思う。
何時だったのかはっきりと思い出せないけど、初見で嫌いになった。
(PCの画像検索で『フランシス・ベーコン』と検索してみてください)
久々に遭遇したのはなんと映画のセット。ICWRのハスフォードのオブジェ。
あれはまんまのパクリです…や、オマージュと呼ぶべきでしょうか?
年末D.リンチ展を見たとき、暴力性や肉体を変形させたいという執拗な欲望の表現に
フランシス・ベーコンの影響が色濃く感じられた。
…もしかしてベーコンが嫌いなのは強烈に惹き付けられるせいかもしれない。
と、思い始めたタイミングにこのイベント。
しかも今回の展覧会は92年に画家が亡くなってからアジア初。
見逃したら次はいつ見れるか分からない。
これはもう、見るしかない!
前置きが長くなりました。
東京国立近代美術館、ギャラリー友達wのkonynonちゃんと。
感想:感覚的で不可解で謎めいている
最初の絵の前に立ったとき、抱いていた先入観が一瞬で消え去りました。
http://www.fashion-press.net/news/gallery/6020/101429
小さな画像で見ると、人物の不自然なフォルムといい、強烈で不吉な色彩といい、
ぽっかり開いた地獄の空洞のような口といい、おどろおどろしいイメージですが…。
大きなキャンバスに描かれたこれの前に立って感じたのは<静寂>でした。
それも瞑想で得る心の静寂さとは別種のもの。
描かれた人物は間違いなく叫んでいるのだけど、その声は真っ黒な空洞の口から
外へ向けて発せられることはなく、閉鎖された空っぽの肉体に閉じ込められ、
音として見る側の耳にも心にも届くことはない。
わたしは彼/彼女の声が、恐怖なのか、苦痛なのか、絶望なのか、それとも単に
こちら側を威嚇しているのかすら分からない。
次々に繰り出される歪んだ顔、捻れて崩れ、半分消えかけた肉の塊と化した人物。
暗い灰色に幽霊の如く浮かび上がる、骸骨や猿に似せて描かれた男の顔。
画面を横切る黒い直線で区切った透明な箱に押し込まれて、声を奪われた肖像画。
どれもこれも苦痛と恐怖の表情を浮かべているのだけど、画家は描いた対象そのものに恐ろしいほど無関心で冷淡で、彼らの訴えに耳を貸そうともしないし、
彼らの苦痛を見る者に説明すらしない。
ただ物体としてそこに置き去りにされた肉体。
空虚。
暴力と苦痛を、残酷なイメージを描くことで表現した作品はたくさんあります。
それらは、最初こそ衝撃的ですが、見ているうちに食傷気味になってうんざりしたり
時にはその過剰さが笑いを誘ってしまうことすらあります。
しかしベーコンの描く暴力は全く別の次元だと感じました。
今、目の前にある苦痛や恐怖を極限まで純化して描きながら、それらを意図的に
一枚の絵に閉じ込め、ガラスと金属の額縁の中に封印する。
見る側から隔離して<伝わらせない>こと。
自分の発した叫びが誰にも届かないという、究極の悪夢に閉じ込める暴力。
その悪夢には形がなく、正体を暴く手がかりも意図的に隠されている。
だから尚更知りたくなる。
ということで、早速図書館でベーコンのインタビュー集を予約しました。
発売中の美術手帖も買おうかと思ってます。
つまり、まんまと画家の策略にハマってしまったというわけです(笑)
大っ嫌い!は、好き!のきっかけであるのかもしれません。
ベーコン展詳細
http://bacon.exhn.jp/index.html
目鼻立ちも定かでない顔にぽっかりと開いた真空の穴のような口。
その空虚な黒い穴から発せられている音の無い絶望の叫び。
初めて彼の作品を目にしたのは、美術雑誌だったと思う。
何時だったのかはっきりと思い出せないけど、初見で嫌いになった。
(PCの画像検索で『フランシス・ベーコン』と検索してみてください)
久々に遭遇したのはなんと映画のセット。ICWRのハスフォードのオブジェ。
あれはまんまのパクリです…や、オマージュと呼ぶべきでしょうか?
年末D.リンチ展を見たとき、暴力性や肉体を変形させたいという執拗な欲望の表現に
フランシス・ベーコンの影響が色濃く感じられた。
…もしかしてベーコンが嫌いなのは強烈に惹き付けられるせいかもしれない。
と、思い始めたタイミングにこのイベント。
しかも今回の展覧会は92年に画家が亡くなってからアジア初。
見逃したら次はいつ見れるか分からない。
これはもう、見るしかない!
前置きが長くなりました。
東京国立近代美術館、ギャラリー友達wのkonynonちゃんと。
感想:感覚的で不可解で謎めいている
最初の絵の前に立ったとき、抱いていた先入観が一瞬で消え去りました。
http://www.fashion-press.net/news/gallery/6020/101429
小さな画像で見ると、人物の不自然なフォルムといい、強烈で不吉な色彩といい、
ぽっかり開いた地獄の空洞のような口といい、おどろおどろしいイメージですが…。
大きなキャンバスに描かれたこれの前に立って感じたのは<静寂>でした。
それも瞑想で得る心の静寂さとは別種のもの。
描かれた人物は間違いなく叫んでいるのだけど、その声は真っ黒な空洞の口から
外へ向けて発せられることはなく、閉鎖された空っぽの肉体に閉じ込められ、
音として見る側の耳にも心にも届くことはない。
わたしは彼/彼女の声が、恐怖なのか、苦痛なのか、絶望なのか、それとも単に
こちら側を威嚇しているのかすら分からない。
次々に繰り出される歪んだ顔、捻れて崩れ、半分消えかけた肉の塊と化した人物。
暗い灰色に幽霊の如く浮かび上がる、骸骨や猿に似せて描かれた男の顔。
画面を横切る黒い直線で区切った透明な箱に押し込まれて、声を奪われた肖像画。
どれもこれも苦痛と恐怖の表情を浮かべているのだけど、画家は描いた対象そのものに恐ろしいほど無関心で冷淡で、彼らの訴えに耳を貸そうともしないし、
彼らの苦痛を見る者に説明すらしない。
ただ物体としてそこに置き去りにされた肉体。
空虚。
暴力と苦痛を、残酷なイメージを描くことで表現した作品はたくさんあります。
それらは、最初こそ衝撃的ですが、見ているうちに食傷気味になってうんざりしたり
時にはその過剰さが笑いを誘ってしまうことすらあります。
しかしベーコンの描く暴力は全く別の次元だと感じました。
今、目の前にある苦痛や恐怖を極限まで純化して描きながら、それらを意図的に
一枚の絵に閉じ込め、ガラスと金属の額縁の中に封印する。
見る側から隔離して<伝わらせない>こと。
自分の発した叫びが誰にも届かないという、究極の悪夢に閉じ込める暴力。
その悪夢には形がなく、正体を暴く手がかりも意図的に隠されている。
だから尚更知りたくなる。
ということで、早速図書館でベーコンのインタビュー集を予約しました。
発売中の美術手帖も買おうかと思ってます。
つまり、まんまと画家の策略にハマってしまったというわけです(笑)
大っ嫌い!は、好き!のきっかけであるのかもしれません。
ベーコン展詳細
http://bacon.exhn.jp/index.html
アノニマス=名前の無い ライフ=生命で、『名を明かさない生命』
テクノロジーによって産み出されるキメラ(=合成生物)
または、新しい生命体、という意味のタイトルらしいです。
西新宿のオペラシティ内<ICC ギャラリー>にて3/3まで開催中。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/AnonymousLife/works_j.html
スプツニ子さんの展示を見るのが第一目的でした。
『菜の花ヒール』
菜の花は逞しい植物でまた成長するときに土中の無機質とともに構造の似た水溶性の放射性物質(セシウム、ストロンチウム)を吸収、茎に蓄える性質があるとか
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104230092.html
彼女は若手のデザイナーと共同で、一歩踏み出すごとに土中に菜の花の種を撒く
ハイヒールを制作し、一面の菜の花で埋め尽くされた空間に置いて、それを履いて
福島の地を歩く姿の映像をバックに流しました。
コンセプトが面白いですし、何より展示品が美しく、不思議で、可愛らしい。
一歩進むごとにより良い未来へ近づく。
それを具体的に目で見ることのできる作品です。
http://www.sputniko.com/?p=1519631
<ヒール>は靴の踵=heelと癒し=healのダブルミーニングになってるんですね。
同じくスプツニ子さんの作品。
『生理マシーン、タカシの場合』
http://www.youtube.com/watch?v=gnb-rdGbm6s
女の子になりたい青年タカシは女装するだけでは飽き足らず、女性だけの感覚=月経を体感できるマシーンを発明して装着し、女装して女友達と街へ。
夜遊びの途中でマシーンが作動、「おなか、痛ったぁ〜い!」とくずおれてしまう
タカシくん(笑)
もちろんタカシくんはスプツニ子さんが演じています。
重要なモティーフとしてフェミニズムが中心にあるんだけれども、ユーモラスで、
決して攻撃的ではない。
<生理痛を体感できるマシーン>って発想に思わずクスっと笑ってしまった。
音楽と映像と制作物とが一体化して作り上げた空間を体験する。
こういう展示手法を<インスタレーション>と呼ぶのですが、もちろんその中の
一つの要素だけでも面白く、組合わさることでより意図が明確になって、
しかも楽しい。
現代アートってなんだか分かり難くて入り辛いイメージがあるかもしれないけれど、彼女のそれは綺麗だったり可愛かったり面白かったり。
テーマはシリアスでも表現はポップ。
そこがいかにも現代風で、もっと作品を見てみたいアーティストさんでした。
もう一つ違う意味で印象的だったのが、『リプリー02』というアンドロイドを使った展示。
齋藤達也+石黒浩氏の共同作品。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/AnonymousLife/work02_j.html
このアンドロイドがすっごくリアルなんですよ。
近くで見ても肌の質感が、若くてすべすべな女性のそれ。
あたかも呼吸しているかの如く胸が上下するようプログラミングされている。
で、顔を見ると瞬きもしたりする。
そのタイミングとか動きが絶妙で、見れば見るほどよく出来ていて、
ぶっちゃけ気持ち悪かったです…。
人が生きているかを判断する重要なチェックポイントとして<呼吸>がある。
「呼吸が止まっている=生きてない」
でも、リプリー02は呼吸している。瞬きもする。
実際彼女を動かしているのはコンピューターのプログラムな訳ですが、では彼女が
「生きていない」と判断するための客観的手がかりは何?
…と真剣に考え始めると分からなくなりそうなくらいリアル。
ううむ。
と、リプリーさんの前で暫く考え込んでしまいました。
まぁ平日の午後だったので人が居なくて、ゆっくり見れたからですけど(笑)
ちなみに入場料は500円。
窓口でチケットを買うと、会期中ならもう一度ギャラリーへ入れるそうです。
もう一回行ってみようかなぁと思ってます。
テクノロジーによって産み出されるキメラ(=合成生物)
または、新しい生命体、という意味のタイトルらしいです。
西新宿のオペラシティ内<ICC ギャラリー>にて3/3まで開催中。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/AnonymousLife/works_j.html
スプツニ子さんの展示を見るのが第一目的でした。
『菜の花ヒール』
菜の花は逞しい植物でまた成長するときに土中の無機質とともに構造の似た水溶性の放射性物質(セシウム、ストロンチウム)を吸収、茎に蓄える性質があるとか
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104230092.html
彼女は若手のデザイナーと共同で、一歩踏み出すごとに土中に菜の花の種を撒く
ハイヒールを制作し、一面の菜の花で埋め尽くされた空間に置いて、それを履いて
福島の地を歩く姿の映像をバックに流しました。
コンセプトが面白いですし、何より展示品が美しく、不思議で、可愛らしい。
一歩進むごとにより良い未来へ近づく。
それを具体的に目で見ることのできる作品です。
http://www.sputniko.com/?p=1519631
<ヒール>は靴の踵=heelと癒し=healのダブルミーニングになってるんですね。
同じくスプツニ子さんの作品。
『生理マシーン、タカシの場合』
http://www.youtube.com/watch?v=gnb-rdGbm6s
女の子になりたい青年タカシは女装するだけでは飽き足らず、女性だけの感覚=月経を体感できるマシーンを発明して装着し、女装して女友達と街へ。
夜遊びの途中でマシーンが作動、「おなか、痛ったぁ〜い!」とくずおれてしまう
タカシくん(笑)
もちろんタカシくんはスプツニ子さんが演じています。
重要なモティーフとしてフェミニズムが中心にあるんだけれども、ユーモラスで、
決して攻撃的ではない。
<生理痛を体感できるマシーン>って発想に思わずクスっと笑ってしまった。
音楽と映像と制作物とが一体化して作り上げた空間を体験する。
こういう展示手法を<インスタレーション>と呼ぶのですが、もちろんその中の
一つの要素だけでも面白く、組合わさることでより意図が明確になって、
しかも楽しい。
現代アートってなんだか分かり難くて入り辛いイメージがあるかもしれないけれど、彼女のそれは綺麗だったり可愛かったり面白かったり。
テーマはシリアスでも表現はポップ。
そこがいかにも現代風で、もっと作品を見てみたいアーティストさんでした。
もう一つ違う意味で印象的だったのが、『リプリー02』というアンドロイドを使った展示。
齋藤達也+石黒浩氏の共同作品。
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2012/AnonymousLife/work02_j.html
このアンドロイドがすっごくリアルなんですよ。
近くで見ても肌の質感が、若くてすべすべな女性のそれ。
あたかも呼吸しているかの如く胸が上下するようプログラミングされている。
で、顔を見ると瞬きもしたりする。
そのタイミングとか動きが絶妙で、見れば見るほどよく出来ていて、
ぶっちゃけ気持ち悪かったです…。
人が生きているかを判断する重要なチェックポイントとして<呼吸>がある。
「呼吸が止まっている=生きてない」
でも、リプリー02は呼吸している。瞬きもする。
実際彼女を動かしているのはコンピューターのプログラムな訳ですが、では彼女が
「生きていない」と判断するための客観的手がかりは何?
…と真剣に考え始めると分からなくなりそうなくらいリアル。
ううむ。
と、リプリーさんの前で暫く考え込んでしまいました。
まぁ平日の午後だったので人が居なくて、ゆっくり見れたからですけど(笑)
ちなみに入場料は500円。
窓口でチケットを買うと、会期中ならもう一度ギャラリーへ入れるそうです。
もう一回行ってみようかなぁと思ってます。
数年ぶりに原宿。ラフォーレ。
konynonちゃんとデビッド・リンチ展に行ってきました。
http://www.cbc-net.com/event/2012/09/david_lynch/
デビッド・リンチ。
TVシリーズ『ツイン・ピークス』の監督、っていえばピンと来る人も多いのかな?
『イレイザー・ヘッド』『ブルー・ベルベット』『デューン砂の惑星』とかも撮ってますが、エンターテインメント性と変態的パラノイアチックな拘りとが、
独特のバランスで共存する芸風wが特徴。
最近はかなりアート性の高い(=変態性の高い?)芸風に傾いてる模様。
今回の展覧会ではドローイング、写真、ショートフィルムが体験できます。
館内、かなり暗いです。
まずは写真。
廃墟や裏通りなど、人気の無い構造物をモノクロで撮影してあるのですが、
全体の風景というよりディテールに思いっきり近寄って撮っているので、ちょっと見
何が映ってるのか分かりません。
よーく見ると剥げた壁とか、正体不明の液体のシミとか、ボロボロのブロックから
突きだした錆びた鉤針とかで、これがめっちゃ怖いんですよ。
なんというか…目には見えないけれど、人間の念が漂っているような…。
ここ、絶対誰か死んでるやろ!!!! 人の影が彷徨ってるやろ!!!!
…みたいな想像をしてしまうような写真(笑)
次にドローイング。
陽に焼けて茶色くかさかさに変色したような紙に黒のパステルで殴り書きしたような
不気味なキャラクターの顔や何かの断片のデッサンみたいな絵。
それからほとんどモノクロのグワッシュらしきもので描かれた、変形した人の顔。
ううむ…誰かの絵に似ている…そうだ、フランシス・ベーコンの画風にそっくり。
(注:ICWRのハスフォードのアトリエにあった気持ち悪い一連のオブジェは、
フランシス・ベーコンの作品のパクりです)
…と思ったら、リスペクトしている画家にフランシス・ベーコンの名前が(笑)
そうか、これはオマージュなのか(違)
圧巻だったのが、縦横が2m×4m位ありそうな一連のシリーズ。
思春期の衝動的行動がテーマだと思うのですが、分厚く重ねた絵の具の質感と、
木の棒やら豆電球やらジーンズやらシャツをくっつけた半立体になってます。
これも人物の顔や肉体が例外無くねじ曲げられている。
…人体を変形させたり故意に誇張したり、なんというか、人間性への悪意みたいな。
怒りや衝動や死や、重くて暗いものを描いているんですが、でも嫌いじゃないです。
私はフランシス・ベーコンは嫌いなんですけど、リンチは嫌いじゃない。
どこかにちょっとユーモアがあるんですよ。
とっても捻じくれた黒い笑いなんですけど…。
そこは彼の映画と通じるものがあるんですよね。
一番興味深かったのは、やはり映像。
『RABBITS』
http://www.youtube.com/watch?v=CdjWWSKfKsg
(つべには字幕無ししかupされてなくて…)
ウサギの被り物をした、家族と思しき3人の、密室劇。
昔TVで見てたアメリカのホーム・ドラマみたいな設定なんですが、登場人物の会話が
全く噛み合ってない。
3人は何かの<予感>に緊張し、怯えているのですが、一体何に怯えているのか
曖昧で、密室の閉塞感と気味の悪い音楽、そしてウサギの被り物のせいで全く表情が
わからないのも相まって、見れば見るほど、こっち側に不安が伝染してくるのです。
じわじわと少しずつ広がる黒いシミのように。
また画面の構成がほとんど完璧なんですよねー…。
それぞれの俳優さんの動きの速度、喋り方、声のトーン、立ち位置、タイミング。
どの瞬間も隅から隅まで恐ろしく計算されつくしている。
あまりにも完璧で、返って気持ち悪い。
興味深いですが、俳優さん、肉体的にも精神的にもめちゃくちゃ消耗しただろうな。
ちなみにお母さんウサギ役がナオミ・ワッツ。
…よく引き受けたな、こんな役(笑)
時間が立つほどにじわじわ後味が広がって来る、インパクトある展覧会です。
12月2日まで。
konynonちゃんとデビッド・リンチ展に行ってきました。
http://www.cbc-net.com/event/2012/09/david_lynch/
デビッド・リンチ。
TVシリーズ『ツイン・ピークス』の監督、っていえばピンと来る人も多いのかな?
『イレイザー・ヘッド』『ブルー・ベルベット』『デューン砂の惑星』とかも撮ってますが、エンターテインメント性と変態的パラノイアチックな拘りとが、
独特のバランスで共存する芸風wが特徴。
最近はかなりアート性の高い(=変態性の高い?)芸風に傾いてる模様。
今回の展覧会ではドローイング、写真、ショートフィルムが体験できます。
館内、かなり暗いです。
まずは写真。
廃墟や裏通りなど、人気の無い構造物をモノクロで撮影してあるのですが、
全体の風景というよりディテールに思いっきり近寄って撮っているので、ちょっと見
何が映ってるのか分かりません。
よーく見ると剥げた壁とか、正体不明の液体のシミとか、ボロボロのブロックから
突きだした錆びた鉤針とかで、これがめっちゃ怖いんですよ。
なんというか…目には見えないけれど、人間の念が漂っているような…。
ここ、絶対誰か死んでるやろ!!!! 人の影が彷徨ってるやろ!!!!
…みたいな想像をしてしまうような写真(笑)
次にドローイング。
陽に焼けて茶色くかさかさに変色したような紙に黒のパステルで殴り書きしたような
不気味なキャラクターの顔や何かの断片のデッサンみたいな絵。
それからほとんどモノクロのグワッシュらしきもので描かれた、変形した人の顔。
ううむ…誰かの絵に似ている…そうだ、フランシス・ベーコンの画風にそっくり。
(注:ICWRのハスフォードのアトリエにあった気持ち悪い一連のオブジェは、
フランシス・ベーコンの作品のパクりです)
…と思ったら、リスペクトしている画家にフランシス・ベーコンの名前が(笑)
そうか、これはオマージュなのか(違)
圧巻だったのが、縦横が2m×4m位ありそうな一連のシリーズ。
思春期の衝動的行動がテーマだと思うのですが、分厚く重ねた絵の具の質感と、
木の棒やら豆電球やらジーンズやらシャツをくっつけた半立体になってます。
これも人物の顔や肉体が例外無くねじ曲げられている。
…人体を変形させたり故意に誇張したり、なんというか、人間性への悪意みたいな。
怒りや衝動や死や、重くて暗いものを描いているんですが、でも嫌いじゃないです。
私はフランシス・ベーコンは嫌いなんですけど、リンチは嫌いじゃない。
どこかにちょっとユーモアがあるんですよ。
とっても捻じくれた黒い笑いなんですけど…。
そこは彼の映画と通じるものがあるんですよね。
一番興味深かったのは、やはり映像。
『RABBITS』
http://www.youtube.com/watch?v=CdjWWSKfKsg
(つべには字幕無ししかupされてなくて…)
ウサギの被り物をした、家族と思しき3人の、密室劇。
昔TVで見てたアメリカのホーム・ドラマみたいな設定なんですが、登場人物の会話が
全く噛み合ってない。
3人は何かの<予感>に緊張し、怯えているのですが、一体何に怯えているのか
曖昧で、密室の閉塞感と気味の悪い音楽、そしてウサギの被り物のせいで全く表情が
わからないのも相まって、見れば見るほど、こっち側に不安が伝染してくるのです。
じわじわと少しずつ広がる黒いシミのように。
また画面の構成がほとんど完璧なんですよねー…。
それぞれの俳優さんの動きの速度、喋り方、声のトーン、立ち位置、タイミング。
どの瞬間も隅から隅まで恐ろしく計算されつくしている。
あまりにも完璧で、返って気持ち悪い。
興味深いですが、俳優さん、肉体的にも精神的にもめちゃくちゃ消耗しただろうな。
ちなみにお母さんウサギ役がナオミ・ワッツ。
…よく引き受けたな、こんな役(笑)
時間が立つほどにじわじわ後味が広がって来る、インパクトある展覧会です。
12月2日まで。
BIOSOPHIA of BIRDS(鳥のビオソフィア)編集しました。
2012年6月17日 趣味
ギャラリー916の上田義彦氏の写真展『Birds and Bones』へ。
http://gallery916.com/exhibition/birdsandbones/
*展示写真の一部がブラウザから見れます。
古代の森の姿をとどめる屋久島と屋久杉の神秘の姿に迫る
『Materia』展以来です。
*4/5の記事参照↓
http://edit.diarynote.jp/home/diary/edit?time_id=201204052256029591
今回は山階鳥類研究所に保管された世界各国の鳥類の標本写真と、
ほ乳類の骨格標本、そして現在上野の国立科学博物館で開催されている縄文人展
http://www.kahaku.go.jp/event/2012/04jomon/
での縄文人の骨格写真とが展示されています。
前回もですが、上田氏のオリジナルプリントを前にすると、なにかこう…
打ちのめされた気分に陥るのです。
恐るべき表現へのエネルギーが視覚を圧倒し、触覚・嗅覚までをも刺激しつつ、
内面に強烈な揺さぶりをかける。
微かに青みを感じさせる漆黒の闇に、あまりにも鮮やかに・細部まで
執拗に切り取られ、その質感まで念入りに再現された鳥の羽根、ほ乳類の骨格。
息をすることさえ忘れるような、表現への執着が見るものの視線をクギヅケにし、
その魂を凍結された<死>の世界へと誘います。
それらは一般的な意味ではとうの昔に死んでいるのに、上田氏のカメラによって
新たな生命…無生物としての<生>を得て蘇り、何事かを語りかけてくる。
こんな写真を撮るためには、どれほどの情熱が必要だろう?
まず羽毛の一つ一つ、骨の表面の微かなヒビや色の濃淡に至るまで仔細に点検し、
指先で触れ、その全容が脳裏にくっきり刻み込まれるまで眺める。
次にその脳裏に浮かんだ姿と実際に手元にある対象とをシンクロさせる、
気の遠くなる作業が始まるに違いない。
どんな配置で、どれくらいの明るさで、光の角度は?ピントの深度は?
顕微鏡を覗き込みながら手術する外科医のような、大胆さと繊細さを持って、
全ての条件を一つ一つクリアしていく。
その段階を経て、ようやくカメラの後ろに回る。
きっと、すぐにはシャッターを切らないに違いない。
対峙する剣士のように、その瞬間を待つ…我慢強く…そして、その瞬間。
(*注:すべて私の妄想です)
さて。
上田氏の被写体たちは、頭のてっぺんから細い尾羽の先端に至るまで鮮明に、
まるで実物を目の前にしたかのように仔細に眺めることが可能なのです。
凄いなあ…。
ギャラリーのスタッフさんが、上田氏がこの撮影に使っているのは<ディアドルフ>という特殊なカメラであると教えてくださいました。
http://theonlinephotographer.typepad.com/the_online_photographer/2007/12/chamonix-4x5.html
まるでアコーディオンのような形状をもつ古風なカメラは、蛇腹を伸び縮みさせ、
ピントの深度を調整するしくみだそうです。
いや〜…このカメラのビジュアルは堪えられませんな。
しかしその素晴らしさを支えているのはもちろん、技術や機材だけでありません。
さらにその方の説明によりますと、今回の916で展示されているプリントは、新たに焼き直したもので、2008年に発売された写真集(写真参照)とは別なのだそう。
写真そのものは2005年から2008年にかけて撮られたものですが、
上田氏は撮影当時の感覚を呼び覚ましつつ、作業に臨まれたと。
「7年から4年の月日を経過した今、流れた時間の層を一気に透過して、
<その瞬間>の自分の感情や感覚を呼び覚ます作業を経た上で
今回はブルーを強調するように調整して焼き直した。」ものだとか。
まるで遺跡を発掘し、洗浄し、組み立て直し、現在へと蘇らせるような作業。
その作業過程のお話が、<死>から蘇って新たな表現の生命を得た被写体たちの
イメージとぴったりと重なって、
勝手ながら私は、そこに何か崇高な意思を垣間みる気さえしたのでした。
http://gallery916.com/exhibition/birdsandbones/
*展示写真の一部がブラウザから見れます。
古代の森の姿をとどめる屋久島と屋久杉の神秘の姿に迫る
『Materia』展以来です。
*4/5の記事参照↓
http://edit.diarynote.jp/home/diary/edit?time_id=201204052256029591
今回は山階鳥類研究所に保管された世界各国の鳥類の標本写真と、
ほ乳類の骨格標本、そして現在上野の国立科学博物館で開催されている縄文人展
http://www.kahaku.go.jp/event/2012/04jomon/
での縄文人の骨格写真とが展示されています。
前回もですが、上田氏のオリジナルプリントを前にすると、なにかこう…
打ちのめされた気分に陥るのです。
恐るべき表現へのエネルギーが視覚を圧倒し、触覚・嗅覚までをも刺激しつつ、
内面に強烈な揺さぶりをかける。
微かに青みを感じさせる漆黒の闇に、あまりにも鮮やかに・細部まで
執拗に切り取られ、その質感まで念入りに再現された鳥の羽根、ほ乳類の骨格。
息をすることさえ忘れるような、表現への執着が見るものの視線をクギヅケにし、
その魂を凍結された<死>の世界へと誘います。
それらは一般的な意味ではとうの昔に死んでいるのに、上田氏のカメラによって
新たな生命…無生物としての<生>を得て蘇り、何事かを語りかけてくる。
こんな写真を撮るためには、どれほどの情熱が必要だろう?
まず羽毛の一つ一つ、骨の表面の微かなヒビや色の濃淡に至るまで仔細に点検し、
指先で触れ、その全容が脳裏にくっきり刻み込まれるまで眺める。
次にその脳裏に浮かんだ姿と実際に手元にある対象とをシンクロさせる、
気の遠くなる作業が始まるに違いない。
どんな配置で、どれくらいの明るさで、光の角度は?ピントの深度は?
顕微鏡を覗き込みながら手術する外科医のような、大胆さと繊細さを持って、
全ての条件を一つ一つクリアしていく。
その段階を経て、ようやくカメラの後ろに回る。
きっと、すぐにはシャッターを切らないに違いない。
対峙する剣士のように、その瞬間を待つ…我慢強く…そして、その瞬間。
(*注:すべて私の妄想です)
さて。
上田氏の被写体たちは、頭のてっぺんから細い尾羽の先端に至るまで鮮明に、
まるで実物を目の前にしたかのように仔細に眺めることが可能なのです。
凄いなあ…。
ギャラリーのスタッフさんが、上田氏がこの撮影に使っているのは<ディアドルフ>という特殊なカメラであると教えてくださいました。
http://theonlinephotographer.typepad.com/the_online_photographer/2007/12/chamonix-4x5.html
まるでアコーディオンのような形状をもつ古風なカメラは、蛇腹を伸び縮みさせ、
ピントの深度を調整するしくみだそうです。
いや〜…このカメラのビジュアルは堪えられませんな。
しかしその素晴らしさを支えているのはもちろん、技術や機材だけでありません。
さらにその方の説明によりますと、今回の916で展示されているプリントは、新たに焼き直したもので、2008年に発売された写真集(写真参照)とは別なのだそう。
写真そのものは2005年から2008年にかけて撮られたものですが、
上田氏は撮影当時の感覚を呼び覚ましつつ、作業に臨まれたと。
「7年から4年の月日を経過した今、流れた時間の層を一気に透過して、
<その瞬間>の自分の感情や感覚を呼び覚ます作業を経た上で
今回はブルーを強調するように調整して焼き直した。」ものだとか。
まるで遺跡を発掘し、洗浄し、組み立て直し、現在へと蘇らせるような作業。
その作業過程のお話が、<死>から蘇って新たな表現の生命を得た被写体たちの
イメージとぴったりと重なって、
勝手ながら私は、そこに何か崇高な意思を垣間みる気さえしたのでした。
マイナス40度の世界。
2012年5月27日 趣味第53次南極観測隊のyath様のブログ。
http://modest.exblog.jp/
夏に向けて気温の上昇しつつある東京とは真逆に、刻々と真冬に向かう南極。
先日はついにマイナス40度での屋外作業を体験されたらしく、
顔を剣山で刺されるようなとか、コンタクトレンズが寒さでズレてくるとか、
想像を絶する凄い体験を綴ってらっしゃいます。
実際にその場に居る人でないとできない表現ってありますよね。
yath様の語るマイナス40度は、寒さが単なる気温の表現を超えて、皮膚感覚として
捉えられているところにリアリティを感じました。
お湯を空中に向かってパッと放つと、一瞬で凍り付いてできる『お湯花火』。
きれいで不思議。
昨日と今日、イベント用の氷のドームを作るため屋外で作業されてらっしゃって、
南極マニア(笑)の友達と時々リアルタイム映像をチェックしあってます。
http://polaris.nipr.ac.jp/~webcam/NC2/
現地時間で15時すぎ、もう真っ暗。
ライトの中に浮かび上がるドームが、砂に半分埋まった巨大な亀の甲羅のよう。
これも不思議な光景ですね…。
http://modest.exblog.jp/
夏に向けて気温の上昇しつつある東京とは真逆に、刻々と真冬に向かう南極。
先日はついにマイナス40度での屋外作業を体験されたらしく、
顔を剣山で刺されるようなとか、コンタクトレンズが寒さでズレてくるとか、
想像を絶する凄い体験を綴ってらっしゃいます。
実際にその場に居る人でないとできない表現ってありますよね。
yath様の語るマイナス40度は、寒さが単なる気温の表現を超えて、皮膚感覚として
捉えられているところにリアリティを感じました。
お湯を空中に向かってパッと放つと、一瞬で凍り付いてできる『お湯花火』。
きれいで不思議。
昨日と今日、イベント用の氷のドームを作るため屋外で作業されてらっしゃって、
南極マニア(笑)の友達と時々リアルタイム映像をチェックしあってます。
http://polaris.nipr.ac.jp/~webcam/NC2/
現地時間で15時すぎ、もう真っ暗。
ライトの中に浮かび上がるドームが、砂に半分埋まった巨大な亀の甲羅のよう。
これも不思議な光景ですね…。
第53次南極観測隊Yath様のBlog。
昭和基地は南極大陸ではなく東オングル島という島にあります。
先日、ついに大陸へ上陸なさったときの感慨を綴ってらっしゃいます。
何より釘付けになったのは、その色彩。
南極って真っ白い氷に閉ざされたイメージがあったんですが、写真で拝見すると、白ではなく青いんです。
文字通りアイスブルーの世界。
もしかしたら光線の具合でそんな風に写っているのかと思い、Yath様にお聞きしたところ、
肉眼でもブルーに見えるそうです。
ブルー・ハワイっていう青いシロップのかき氷があるじゃないですか?
まさにそんな色彩だと...。
こちらで写真が見れます。
↓
http://modest.exblog.jp/17820377/
この映像以上に青いなんて。
想像を絶するなぁ。
きっと光の波長や反射と関係があるんでしょうけど、なんともファンタジックで、
なによりも美しい。
昭和基地は南極大陸ではなく東オングル島という島にあります。
先日、ついに大陸へ上陸なさったときの感慨を綴ってらっしゃいます。
何より釘付けになったのは、その色彩。
南極って真っ白い氷に閉ざされたイメージがあったんですが、写真で拝見すると、白ではなく青いんです。
文字通りアイスブルーの世界。
もしかしたら光線の具合でそんな風に写っているのかと思い、Yath様にお聞きしたところ、
肉眼でもブルーに見えるそうです。
ブルー・ハワイっていう青いシロップのかき氷があるじゃないですか?
まさにそんな色彩だと...。
こちらで写真が見れます。
↓
http://modest.exblog.jp/17820377/
この映像以上に青いなんて。
想像を絶するなぁ。
きっと光の波長や反射と関係があるんでしょうけど、なんともファンタジックで、
なによりも美しい。
ギャラリー916&エスパス・ルイ・ヴィトン
2012年4月5日 趣味 コメント (2)所用でお休みを取ってJR浜松町駅でKonynonちゃんと待ち合わせ。
ギャラリー916で上田義彦氏の写真展「materia」を見ました。
http://gallery916.com/exhibition/materia/
今月号のUOMO、最後のショット。
黒の上下で写真を鑑賞するキムラの身体のラインが印象的な、まさにあの場所です。
http://holidaze.diarynote.jp/?day=20120325
元々は倉庫だった場所をギャラリーにリニューアル。
高い天井、むき出しのコンクリートの床。
がらんとした空間を生かし、壁の白、床のグレイもわざと荒っぽく仕上げた作りが
清潔ながらどことなく廃墟っぽい独特の味わいを醸しだしてます。
1.2×1.0サイズの巨大な写真がぽつぽつと展示されていて、点数は多くないのですが、
返って注意をそがれず一枚一枚に集中できました。
被写体は屋久島の杉。
上田氏のカメラはできるかぎり作為を抑えて、一本一本の苔むした幹や、
それ自体が一個の生き物のように、うねりながら大地を抱え込んだ力強い根が、
自ら語りだす瞬間を見事に切り取っている。
その声は静かで深くてとてもゆっくりしたテンポで語られるので、
聞き取るには写真の前でしばらく足を止めて見入るしかない。
だからこそ、この広々としてあまり手をいれていないシンプルな空間が相応しい。
空間と作品の、見事な調和。
さりげないようだけれど、実は周到に繊細に、隅々まで計算しつくした見せ方。
余談ですが、先日『ブンミおじさんの森』を見たばかりだったので、
ここでも人と森/木々とが根っこで繋がっているのだなぁと、
偶然の一致ながら再確認したのだった。
ギャラリー916のすぐ傍には浜離宮。
150円払って園内へ。
急に温かくなったからか、もう桜が八分咲き。
うっすらと極々淡い紅色の染井吉野。
それよりは随分白く見える大島桜。
時折、強く吹く風にのって幽かな桜の香り。
その花の下の地面を柔らかく覆った緑色の苔。
突然やってきた春の陽気に当てられて意味不明に浮かれる二人(笑)
白い日本水仙や黄色いタンポポ、ぽってりしたボケも花盛り。
人間、素晴しいものをみたり触れたりすると気分が高揚するのでしょうか。
いつもならもう疲れて帰ってしまう自分ですが、Konynonちゃんと一緒に盛り上がった勢いで、ついでに表参道のエスパス・ルイ・ヴィトンへ。
http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/#photoGallery
3/20の日記に書いた「コズミック・トラベラーズ」。
http://holidaze.diarynote.jp/?day=20120320
表参道は久しぶり。歩道で交通整理をしてるおじさんに尋ねてやっと辿りつきました。
店内には目もくれず(笑)エレベーターで一気に6Fのギャラリーへ。
入り口で「どうぞ。」と頂いたパンフレットの装丁の豪華さにビックリ!
シルバーでめちゃくちゃカッコイイ...。
さすがルイ・ヴィトン。太っ腹。
買い物もしない癖にいいのでしょうか(;´∀`)
中に入ってびっくり。
佐藤允(サトウ・アタル)さんご本人がいらっしゃったのでした。
しかもその場で中年の男性をモデルに絵を描いているのです。
佐藤さんの作品は鉛筆を使って極々繊細な線で描き出した人間の関節や内臓や、
昆虫の一部に見える物体が、有機的に絡み合い増殖し膨れ上がりながら、
全体で見ると騙し絵のように、人の顔や目が浮かび上がってくるという幻想的なもの。
キャンバスに隙間無くびっしり詰まった不可思議なディテールが、
いつの間にか白い壁の上にまではみ出して無秩序に増殖していくような空間の使い方は、
アメーバーの増殖のようで不気味といえば不気味なんですが、
ぐぐっと惹きつけられる力をも秘めています。
もう一人、塩保朋子さんという方の作品もとても素晴しかった。
長さ6mの巨大な一枚の紙をレースのように非常に複雑な形に切り抜いた作品で、
離れて眺めると巨大な炎の形のように見え、近づくと無数の網の目の集合体に見える。
切り抜いた穴のひとつひとつの小さな空間に命が宿り、寄り集まって炎のように
渦巻きながら天を目指す。
佐藤さんや塩保さんの作品は見た人全員が「綺麗」と感じるわけではないと思う。
有機的なディテールの集合体は、例えば解剖図や微生物を連想させ、
嫌悪感を覚える人もいるかもしれません。
でもその前に立つと、作品から発せられる強烈なエネルギーに圧倒され、
ただ口をあんぐりあけてボーッと見蕩れてしまう感じなんです。
他人の評価がどうこうでなく、止むに止まれぬ衝動に突き動かされた結果としての作品。
「自分はコレを表現したいんだ!」という思いに囚われた人が全力を傾けたモノ。
そういうモノたちの前にたつと、背中がゾクゾクするような興奮を感じます。
スリリングで快感でさえある体験です。
エスパス・ルイ・ヴィトンは表参道のど真ん中にも関らず、
静かで自然光の溢れる明るく美しい場所でした。
美術館といえば細心の注意を払って管理された閉鎖的空間のイメージですが、
今日訪れたギャラリー916もエスパス・ルイ・ヴィトンも、外に向かって解放された、
ある意味風通しのよい感じの場所でした。
あそこで体験した作品たちと仮に薄暗い美術館の閉鎖空間で出会ったとしたら?
同じ感慨を持ちえただろうか?ちょっと気になります。
どういう場所で・どんなふうに見せるか。
作品の魅力をあますことなく伝えるには欠かせない要素なんだなと実感しました。
折角表参道に来たのだから。
ということで、Konynonちゃんを半ば強引に引っ張って
『PASS THE BATON』『Comme des Garcon D&Department Project』
『Maison Martin Margiela』へ。
いや~...コンセプトのあるお店ってやっぱり面白いです。
モノを売るのが目的なんだけど、場所柄ギャラリーみたいな役割も果たしてるんですな。
表参道ヒルズ周辺は、「売る」ことよりむしろ「見せる」ことを意識してるお店が多かったような。
ブランドのギャラリーって感じでした。
ギャラリー916で上田義彦氏の写真展「materia」を見ました。
http://gallery916.com/exhibition/materia/
今月号のUOMO、最後のショット。
黒の上下で写真を鑑賞するキムラの身体のラインが印象的な、まさにあの場所です。
http://holidaze.diarynote.jp/?day=20120325
元々は倉庫だった場所をギャラリーにリニューアル。
高い天井、むき出しのコンクリートの床。
がらんとした空間を生かし、壁の白、床のグレイもわざと荒っぽく仕上げた作りが
清潔ながらどことなく廃墟っぽい独特の味わいを醸しだしてます。
1.2×1.0サイズの巨大な写真がぽつぽつと展示されていて、点数は多くないのですが、
返って注意をそがれず一枚一枚に集中できました。
被写体は屋久島の杉。
上田氏のカメラはできるかぎり作為を抑えて、一本一本の苔むした幹や、
それ自体が一個の生き物のように、うねりながら大地を抱え込んだ力強い根が、
自ら語りだす瞬間を見事に切り取っている。
その声は静かで深くてとてもゆっくりしたテンポで語られるので、
聞き取るには写真の前でしばらく足を止めて見入るしかない。
だからこそ、この広々としてあまり手をいれていないシンプルな空間が相応しい。
空間と作品の、見事な調和。
さりげないようだけれど、実は周到に繊細に、隅々まで計算しつくした見せ方。
余談ですが、先日『ブンミおじさんの森』を見たばかりだったので、
ここでも人と森/木々とが根っこで繋がっているのだなぁと、
偶然の一致ながら再確認したのだった。
ギャラリー916のすぐ傍には浜離宮。
150円払って園内へ。
急に温かくなったからか、もう桜が八分咲き。
うっすらと極々淡い紅色の染井吉野。
それよりは随分白く見える大島桜。
時折、強く吹く風にのって幽かな桜の香り。
その花の下の地面を柔らかく覆った緑色の苔。
突然やってきた春の陽気に当てられて意味不明に浮かれる二人(笑)
白い日本水仙や黄色いタンポポ、ぽってりしたボケも花盛り。
人間、素晴しいものをみたり触れたりすると気分が高揚するのでしょうか。
いつもならもう疲れて帰ってしまう自分ですが、Konynonちゃんと一緒に盛り上がった勢いで、ついでに表参道のエスパス・ルイ・ヴィトンへ。
http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/#photoGallery
3/20の日記に書いた「コズミック・トラベラーズ」。
http://holidaze.diarynote.jp/?day=20120320
表参道は久しぶり。歩道で交通整理をしてるおじさんに尋ねてやっと辿りつきました。
店内には目もくれず(笑)エレベーターで一気に6Fのギャラリーへ。
入り口で「どうぞ。」と頂いたパンフレットの装丁の豪華さにビックリ!
シルバーでめちゃくちゃカッコイイ...。
さすがルイ・ヴィトン。太っ腹。
買い物もしない癖にいいのでしょうか(;´∀`)
中に入ってびっくり。
佐藤允(サトウ・アタル)さんご本人がいらっしゃったのでした。
しかもその場で中年の男性をモデルに絵を描いているのです。
佐藤さんの作品は鉛筆を使って極々繊細な線で描き出した人間の関節や内臓や、
昆虫の一部に見える物体が、有機的に絡み合い増殖し膨れ上がりながら、
全体で見ると騙し絵のように、人の顔や目が浮かび上がってくるという幻想的なもの。
キャンバスに隙間無くびっしり詰まった不可思議なディテールが、
いつの間にか白い壁の上にまではみ出して無秩序に増殖していくような空間の使い方は、
アメーバーの増殖のようで不気味といえば不気味なんですが、
ぐぐっと惹きつけられる力をも秘めています。
もう一人、塩保朋子さんという方の作品もとても素晴しかった。
長さ6mの巨大な一枚の紙をレースのように非常に複雑な形に切り抜いた作品で、
離れて眺めると巨大な炎の形のように見え、近づくと無数の網の目の集合体に見える。
切り抜いた穴のひとつひとつの小さな空間に命が宿り、寄り集まって炎のように
渦巻きながら天を目指す。
佐藤さんや塩保さんの作品は見た人全員が「綺麗」と感じるわけではないと思う。
有機的なディテールの集合体は、例えば解剖図や微生物を連想させ、
嫌悪感を覚える人もいるかもしれません。
でもその前に立つと、作品から発せられる強烈なエネルギーに圧倒され、
ただ口をあんぐりあけてボーッと見蕩れてしまう感じなんです。
他人の評価がどうこうでなく、止むに止まれぬ衝動に突き動かされた結果としての作品。
「自分はコレを表現したいんだ!」という思いに囚われた人が全力を傾けたモノ。
そういうモノたちの前にたつと、背中がゾクゾクするような興奮を感じます。
スリリングで快感でさえある体験です。
エスパス・ルイ・ヴィトンは表参道のど真ん中にも関らず、
静かで自然光の溢れる明るく美しい場所でした。
美術館といえば細心の注意を払って管理された閉鎖的空間のイメージですが、
今日訪れたギャラリー916もエスパス・ルイ・ヴィトンも、外に向かって解放された、
ある意味風通しのよい感じの場所でした。
あそこで体験した作品たちと仮に薄暗い美術館の閉鎖空間で出会ったとしたら?
同じ感慨を持ちえただろうか?ちょっと気になります。
どういう場所で・どんなふうに見せるか。
作品の魅力をあますことなく伝えるには欠かせない要素なんだなと実感しました。
折角表参道に来たのだから。
ということで、Konynonちゃんを半ば強引に引っ張って
『PASS THE BATON』『Comme des Garcon D&Department Project』
『Maison Martin Margiela』へ。
いや~...コンセプトのあるお店ってやっぱり面白いです。
モノを売るのが目的なんだけど、場所柄ギャラリーみたいな役割も果たしてるんですな。
表参道ヒルズ周辺は、「売る」ことよりむしろ「見せる」ことを意識してるお店が多かったような。
ブランドのギャラリーって感じでした。
コズミック・トラベラーズ@Louis Vuitton表参道
2012年3月20日 趣味ルイ・ヴィトンにはまーったく縁のない自分ですが、表参道店に行きたいな~と。
↓
http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/#photoGallery
ギャラリーが併設されているんです。
大好きな佐藤允(サトウ・アタル)さんが
グループ展に参加されてるとのことで。
4/5と6日にはご本人がその場でドローイングなさるとか。
画像で見ると、他の方々の作品も面白そうです。
問題は入りにくさ。ツレの話ではドアマンがいるよーな建物だとか。
...バーニーズ新宿店以来だよそんなスノッブな場所(;´∀`)
↓
http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/#photoGallery
ギャラリーが併設されているんです。
大好きな佐藤允(サトウ・アタル)さんが
グループ展に参加されてるとのことで。
4/5と6日にはご本人がその場でドローイングなさるとか。
画像で見ると、他の方々の作品も面白そうです。
問題は入りにくさ。ツレの話ではドアマンがいるよーな建物だとか。
...バーニーズ新宿店以来だよそんなスノッブな場所(;´∀`)